志士としての活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 08:29 UTC 版)
天保4年(1833年)、土佐藩上士・土方久用(200石)の長男として生まれる。安政4年(1857年)、江戸へ遊学して儒者・大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。帰国後、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加。文久3年(1863年)以後は藩命により京都へ上り、尊攘派の牙城であった長州藩はじめ諸藩の勤王の志士と交流する。やがて過激派公家・三条実美の知遇を得、徴士学習院出仕を命ぜられたが、同年の八月十八日の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放される。久元は「七卿落ち」に従い、三条や澤宣嘉らと共に長州へ下った。 幕府による第一次長州征討の際には、三条らと共に九州(福岡藩)へ渡海し、大宰府に逃れる。同じ土佐浪士の中岡慎太郎・田中光顕や坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。馬関における木戸孝允と西郷隆盛の会談を周旋する(ただし、連絡の行き違いにより未遂に終わる)。 七卿落ちから明治元年(1868年)にいたるまでの土方の活動は、自らの日記『回天実記』によって詳しく記されている。
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