土佐勤王党に参加
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その後土佐勤王党に参加。中核人物として活躍し、武市瑞山から最も重用された存在の一人。 間崎は、文久2年(1862年)頃、既に土佐藩上士勤王派の重鎮・乾退助(板垣退助)と好誼を結んでいた。文久2年9月17日(太陽暦11月8日)に間崎が乾退助へ送った書簡が現存する。 愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調ひ申さず、然るに右別封の義は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣(文久2年)九月十七日 間崎哲馬 乾退助様 書簡を読む限り別封で、勤王派の重要人物から何らかの機密文書を退助のもとへ直接送ったと考えられている。
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