土佐勤王党以降とは? わかりやすく解説

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土佐勤王党以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 04:02 UTC 版)

吉本祐雄」の記事における「土佐勤王党以降」の解説

祐雄は、平素より盡忠尊皇の念があって、学んで益々その志を篤くした。しかるに神君以来徳川恩顧土佐藩は、藩論主流佐幕にあり、公議政体論唱える参政吉田東洋らとは意見合わず、事ここに及んで土佐勤王党密議して、瑞山指示のもと、河野敏鎌万寿弥)、弘瀬健太安岡正美らをして、吉田東洋暗殺せしむるに至る。これは時に1862年5月6日文久2年4月8日)のことである。 この暴挙によって、藩政東洋派の新おこぜ組に属す福岡孝茂宮内)、真辺正心(栄三郎)、後藤象二郎らを失脚せしめた。 祐雄は、同年7月旧暦6月土佐藩主・山内豊範時代参勤交代随行し大坂滞在中、一藩勤皇掲げ武市瑞山共鳴し土佐勤王党加盟するが、翌年1863年9月30日文久3年8月18日京都政変が起こるや土佐藩内は佐幕派巻き返し公議政体論唱える山内容堂威光圧されて、急進的な武力討幕目指す土佐勤王党は難を受ける。 同年10月21日旧暦9月21日)、吉田東洋暗殺の事が露顕し首領武市瑞山が縛につくや、志士らも多くは捕えられ、あるいは土佐より脱藩試みる者も顕はれた。祐雄は、身を藩内に留めて、獄中志士釈放せんが為に奔走するも、容易ならざる事態のまま、1864年元治元年)を迎え同年11月16日旧暦10月17日)、長州征伐に際して土佐藩主・山内豊範大坂表の警備幕閣より命ぜられ、祐雄も藩命受けて大坂滞留した。 しかして1865年7月3日元治2年5月11日)、裁き下りて瑞山割腹し、獄中志士は「永牢終身禁固刑)」を仰せ付けらる。

※この「土佐勤王党以降」の解説は、「吉本祐雄」の解説の一部です。
「土佐勤王党以降」を含む「吉本祐雄」の記事については、「吉本祐雄」の概要を参照ください。

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