土佐勤王党員の釈放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:55 UTC 版)
慶応3年9月6日(1867年10月3日)、大監察に復職した退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山の土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐこととなる。 9月20日(太陽暦10月17日)、坂本龍馬が、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)へ送った書簡には、 一筆啓上仕候。然ニ先日の御書中、大芝居の一件、兼而存居候所とや、実におもしろく能相わかり申候間、彌憤発可仕奉存候。其後於長崎も、上國の事種々心にかゝり候内、少〻存付候旨も在之候より、私し一身の存付ニ而手銃一千廷買求、藝州蒸氣船をかり入、本國ニつみ廻さんと今日下の關まで參候所、不計(はからず)も伊藤兄上國より御かへり被成、御目かゝり候て、薩土及云云、且大久保が使者ニ来りし事迄承り申候より、急々本國をすくわん事を欲し、此所ニ止り拝顔を希ふにひまなく、殘念出帆仕候。小弟(坂本龍馬)思ふに是より(土佐に)かへり乾(板垣)退助ニ引合置キ、夫(それ)より上國(京都)に出候て、後藤庄(象)次郎を國にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕(つかまつるべき)と存申候。先生の方ニハ御やくし申上候時勢云云の認もの御出來に相成居申候ハんと奉存候。其上此頃の上國の論は先生に御直ニうかゞい候得バ、はたして小弟の愚論と同一かとも奉存候得ども、何共筆には尽かね申候。彼是の所を以、心中御察可被遣候。猶後日の時を期し候。誠恐謹言。(慶應三年)九月廿日、(坂本)龍馬。 木圭先生左右 大政奉還が受け容れられなかった場合は後藤を国へ返し乾退助を出すと述べている。 9月22日(太陽暦10月19日)、中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石円に送り、軍隊編成方法の詳細を説く。 これらの動きに呼応し、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃1,000挺あまりを船に積んで長崎から土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。浦戸入港の時、龍馬が土佐藩参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に宛てた書簡には、 一筆啓上仕候。然ニ此度云々の念在之、手銃一千挺、藝州蒸汽船に積込候て、浦戸に相廻申候。參がけ下ノ關に立より申候所、京師の急報在之候所、中々さしせまり候勢、一変動在之候も、今月末より来月初のよふ相聞へ申候。二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、其節長州人数も上坂 是も三大隊斗かとも被存候との約定相成申候。小弟(坂本龍馬)下ノ關居の日、薩大久保一蔵長ニ使者ニ来り、同國の蒸汽船を以て本國に歸り申候。御國の勢はいかに御座候や。又、後藤(象二郎)參政はいかゞに候や。 京師の周旋くち(口)下關にてうけたまわり實に苦心に御座候。乾氏(板垣退助)はいかゞに候や。早々拜顔の上、万情申述度、一刻を争て奉急報候。謹言。(慶應三年)九月廿四日 坂本龍馬 渡辺先生 左右 と書き送っている。 9月25日(太陽暦10月22日)、坂本龍馬が、土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す。 9月29日(太陽暦10月26日)、乾退助は土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜられるが、10月8日(太陽暦11月3日)には大政奉還に真っ向から反対して土佐藩歩兵大隊司令役を解任され、失脚する。
※この「土佐勤王党員の釈放」の解説は、「坂本龍馬」の解説の一部です。
「土佐勤王党員の釈放」を含む「坂本龍馬」の記事については、「坂本龍馬」の概要を参照ください。
- 土佐勤王党員の釈放のページへのリンク