土佐勤王党結成以降
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文久元年(1861年)、武市瑞山が一藩勤皇を掲げて土佐勤王党を結成すると、雅事もこれに加わり瑞山を補佐して奔走した。しかし、徳川家康以来の徳川恩顧の土佐藩は、藩論の主流は佐幕にあり、公武合体論を唱える参政・吉田東洋とは意見が合わず、雅事は瑞山・河野万寿弥・弘瀬健太らと密議して遂に吉田東洋の暗殺を策し、文久2年(1862年)4月8日にこの暴挙を決行して、藩政から東洋派の新おこぜ組に属する福岡孝茂(宮内)や真辺正心(栄三郎)、後藤象二郎らを失脚せしめた。 しかし、文久3年(1863年)9月21日、事態が露見して急進的に武力討幕を目指す土佐勤王党は危険視され、瑞山が捕縛され、勤王党の同志も多く捕えられる中、雅事は、当初、証拠不充分で「類族預け」という自宅謹慎処分となるが、翌年の慶応元年(1865年)5月28日、には遂に獄に投ぜられ、同年閏5月11日に瑞山が切腹すると、雅事や河野万寿弥は「永牢」を仰せ付けられた。
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