土佐勤王党結成以降とは? わかりやすく解説

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土佐勤王党結成以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/14 13:51 UTC 版)

島村雅事」の記事における「土佐勤王党結成以降」の解説

文久元年1861年)、武市瑞山が一藩勤皇掲げて土佐勤王党結成すると、雅事もこれに加わり瑞山補佐して奔走した。しかし、徳川家康以来徳川恩顧土佐藩は、藩論主流佐幕にあり、公武合体論を唱える参政吉田東洋とは意見合わず、雅事は瑞山河野万寿弥弘瀬健太らと密議して遂に吉田東洋暗殺策し文久2年1862年4月8日にこの暴挙決行して、藩政から東洋派の新おこぜ組に属す福岡孝茂宮内)や真辺正心(栄三郎)、後藤象二郎らを失脚せしめた。 しかし、文久3年1863年9月21日事態露見し急進的に武力討幕目指す土佐勤王党危険視され、瑞山捕縛され勤王党同志多くえられる中、雅事は、当初証拠不充分で「類族預け」という自宅謹慎処分となるが、翌年慶応元年1865年5月28日、には遂に獄に投ぜられ、同年5月11日瑞山切腹すると、雅事や河野万寿弥は「永牢」を仰せ付けられた。

※この「土佐勤王党結成以降」の解説は、「島村雅事」の解説の一部です。
「土佐勤王党結成以降」を含む「島村雅事」の記事については、「島村雅事」の概要を参照ください。

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