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あきもとやすたみ 【秋元安民】


秋元安民

読み方あきもと やすたみ

幕末国学者播州姫路藩士。通称正一郎・正蔭・逸民・御民、字は正朔、号は空室小野藩大国隆正門に入り国典・歌文を学んだのち伴信友師事する西洋諸国風土文物究め西洋帆船製造尊攘等の活動も活発。著書に『就中宇宙起源』『例語部類』等がある。文久2年(1862)歿、40才。

秋元安民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 09:47 UTC 版)

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秋元 安民(あきもと やすたみ、1823年2月11日文政6年1月1日) - 1862年9月22日文久2年8月29日))は播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市藩士国学者。名は正一郎、正蔭、御民、逸民とも称した。字は正朔、号は空室。

生涯

『神護丸図絵馬』。慶応3年9月3日(1867年9月30日)に姫路藩船手組の4人によって奉納されたもの。

文政6年(1823年1月1日、姫路藩士の秋元右源次の次男に生まれる。仁寿山黌で学ぶ。

小野藩客員大国隆正に師事し国学和歌を学ぶとともに、隆正の養子になり野々口正蔭と名乗る[1]。後に伴信友にも師事する。

播磨国三木(兵庫県三木市)に私塾を開学、姫路藩の藩校教授になり姫路藩での尊王攘夷派の先駆者になる。西洋学問にも通じ、安政3年(1856年)、姫路藩主の酒井忠顕に大型西洋帆船の建造を進言する。遭難しアメリカ商船に救助された播磨の領民の情報を元に安政6年(1859年)に速鳥丸を建造・進水させると、続けて神護丸と金花丸も建造する。

文久2年(1862年)、藩主の酒井忠績に随従して上京。同年8月29日、京都で客死。享年39。墓地は廬山寺

明治36年(1903年)、正五位を追贈された[2]

著書

  • 『例語部類』
  • 『就中宇宙起源』
  • 『近世三十六歌撰』
  • 『大祓詞集疏』
  • 『神議』
  • 『古祝詞新疏』
  • 『古語拾遺異本考』
  • 『八岐大蛇変化考』

など

脚注

  1. ^ 大国隆正の別姓が野々口であるため。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.20

参考文献

関連項目



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