南北朝合一と終焉とは? わかりやすく解説

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南北朝合一と終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 02:41 UTC 版)

良成親王」の記事における「南北朝合一と終焉」の解説

八代陥落後、残る南朝方の根拠地わずかに矢部福岡県八女市矢部村)のみとなった同年10月筑後守大友親世らが了俊の命で矢部来襲するも、五條頼治がこれを防戦して退却させたので、親王はその軍功賞している。一方中央では、元中9年/明徳3年1392年10月南北朝合一和議明徳の和約)が成立後亀山天皇北朝後小松天皇神器譲渡して、57年に及ぶ南朝歴史に幕下ろしたであった。この報がいつ九州もたらされたかは知る由もないが、親王がなおも征西府再興期していたことは、令旨南朝元号である「元中」を継続使用していることからも察せられよう。具体的には、元中10年/明徳4年1393年2月阿蘇惟政挙兵促すべく、日向豊後守護職並びに肥後八代豊田両荘を賞として与えることを約し元中11年/応永元年1394年12月頼治の子に良量の名を賜って筑前阿蘇一族の跡を宛行い五條氏を激励した事実がある。元中12年/応永2年1395年10月大友氏一族という道徹なる者が矢部侵入したが、頼治・菊池氏活躍してこれを撃退した親王同月20日付でその軍功賞して良量宛に自筆感状与えており、その別筆奥書から、親王当時なお矢部大隠棲していたことが判明する。しかし、これが親王消息知り得る最後史料となり、間もなく親王30代半ば薨去したと推測される妻子存在明らかでないが、子孫肥後米良山に入山したとの説もある。 墓所は、八女市矢部村北矢部御側御霊舎跡とする伝承があり、1878年明治11年5月宮内省によって正式に治定された。御側(おそば)は大転訛と言われ、今も龍顔峰・三倉・王谷尻公卿坂・見参平などの小字が残るという。忌日とされる毎年10月8日には墓前公卿唄(くげうた)や浦安の舞奉納される

※この「南北朝合一と終焉」の解説は、「良成親王」の解説の一部です。
「南北朝合一と終焉」を含む「良成親王」の記事については、「良成親王」の概要を参照ください。

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