南北朝合一と終焉
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八代陥落後、残る南朝方の根拠地はわずかに矢部(福岡県八女市矢部村)のみとなった。同年10月筑後守護大友親世らが了俊の命で矢部に来襲するも、五條頼治がこれを防戦して退却させたので、親王はその軍功を賞している。一方中央では、元中9年/明徳3年(1392年)10月南北朝合一の和議(明徳の和約)が成立。後亀山天皇は北朝・後小松天皇に神器を譲渡して、57年に及ぶ南朝の歴史に幕を下ろしたのであった。この報がいつ九州にもたらされたかは知る由もないが、親王がなおも征西府の再興を期していたことは、令旨に南朝元号である「元中」を継続使用していることからも察せられよう。具体的には、元中10年/明徳4年(1393年)2月阿蘇惟政に挙兵を促すべく、日向・豊後両守護職並びに肥後八代・豊田両荘を賞として与えることを約し、元中11年/応永元年(1394年)12月頼治の子に良量の名を賜って筑前阿蘇一族の跡を宛行い、五條氏を激励した事実がある。元中12年/応永2年(1395年)10月大友氏一族という道徹なる者が矢部に侵入したが、頼治・菊池氏が活躍してこれを撃退した。親王は同月20日付でその軍功を賞して良量宛に自筆の感状を与えており、その別筆奥書から、親王が当時なお矢部大杣に隠棲していたことが判明する。しかし、これが親王の消息を知り得る最後の史料となり、間もなく親王は30代半ばで薨去したと推測される。妻子の存在は明らかでないが、子孫が肥後米良山に入山したとの説もある。 墓所は、八女市矢部村北矢部字御側の御霊舎跡とする伝承があり、1878年(明治11年)5月宮内省によって正式に治定された。御側(おそば)は大杣の転訛と言われ、今も龍顔峰・三倉・王谷尻・公卿坂・見参平などの小字が残るという。忌日とされる毎年10月8日には墓前で公卿唄(くげうた)や浦安の舞が奉納される。
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