南北朝争乱と村上氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:16 UTC 版)
足利尊氏が天皇に謀反を起こすと、朝廷は東海・東山両道に官軍を発向し、村上義貞は箱根・竹ノ下の戦いにおいて尊氏の弟足利直義軍に加わって新田義貞軍の鎌倉進軍を阻止し(『太平記』)、延元2年/建武4年(1337年)には越前国金ヶ崎城で村上信貞、村上房義らが義貞軍と交戦し、これらの戦功により小県郡塩田庄を宛がわれた。それ以降、信濃守護職に補任された小笠原貞宗とともに、信濃国内の北条与党の討伐に邁進(まいしん)した。北条時行とその与党が後に南朝方となることから、北朝よりの立場で信濃国での勢力拡大と地位向上を目指していた。 惣領家である信濃村上氏は次第に北朝方に近い位置に移動していったが、村上氏がすべて北朝方であったわけではなかった。前述の村上義光、義隆父子の系統である村上義光の子で義隆の弟、もしくは義隆の子とされる村上義武、その子、村上義弘は南朝方について活動していた。それが村上水軍と後に言われる勢力である[要出典]。 伊予国を中心に瀬戸内海に活動した村上氏は、源仲宗の時代に、伊予守になった伯父、源頼義に従って伊予に下向した時期があり、後に、前述の白河上皇呪詛の事件があり、どちらも瀬戸内海に面している周防、讃岐に流され水軍と深い関係を結んだ[要出典]。その孫にあたる村上定国(前述の村上為国の弟)が治承・寿永の乱の際に、再び関係を持ち、村上水軍の初代となったとされる[要出典]。その村上水軍を味方にするために後醍醐天皇ら南朝首脳は村上義武を派遣し、その子、義弘が水軍の村上氏を相続したとされる[要出典]。 この時期の村上氏は、信濃では北朝方、瀬戸内海では南朝方として活動していたことになる。畿内では村上貞頼が正平10年(1355年)に平等院の末寺善縁寺の下司職を務め、その子孫の村上正貞が幕府の推挙で鎌倉府の寺奉行を務めている。
※この「南北朝争乱と村上氏」の解説は、「信濃村上氏」の解説の一部です。
「南北朝争乱と村上氏」を含む「信濃村上氏」の記事については、「信濃村上氏」の概要を参照ください。
- 南北朝争乱と村上氏のページへのリンク