南北朝・室町期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 18:53 UTC 版)
南北朝時代には秩父平氏小山田氏の系譜を引くとみられる小山田高家の動向が知られる。『太平記』巻十六「小山田太郎高家青麦を刈る事」によれば、高家は建武3年(1336年)までに新田義貞に従い、同年3月には播磨で兵糧の欠乏から刈田狼藉を行い軍法違反に問われたが、義貞はこれを赦免した。巻十六「新田殿湊川合戦の事」では高家はこの時の恩義から、同年5月の湊川の戦いで義貞の身代わりとして討ち死にしたという。 高家に関する刈田狼藉の逸話は『太平記』の古本には見られず、後世の加筆であると考えられている[要出典]。また、古本では巻十六「新田殿湊川合戦の事」における名を「隆家」としている。 室町時代以降にみられる甲斐の小山田氏とは同族とされるが、その経緯ははっきりしてはいない。 『鎌倉大草紙』『武田源氏一統系図』によれば南北朝期から甲斐守護武田氏と婚姻関係を持つ。 戦国時代には甲斐守護・武田信昌の子である信縄と油川信恵の抗争が発生し、「向嶽寺文書」によれば、小山田氏の当主である小山田信長(耕雲)は塩山向嶽庵(山梨県甲州市上於曽根)の寺領であった都留郡田原郷(同都留市田原)を横領した。明応7年(1499年)には信縄・信恵間で和睦が成立し、明応8年(1499年)9月24日に信長は横領分を向嶽寺に返還したという。なお、この時点で信長は平姓を称している。
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