南北朝の動乱から退廃まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/23 15:48 UTC 版)
「龍門寺跡」の記事における「南北朝の動乱から退廃まで」の解説
吉野に南朝が置かれ、南北朝時代に入ると、龍門庄は南朝方に組み入れられることになった。しかし、南朝方、楠木正行らが四條畷の戦いで破れると、足利方の高師直が吉野まで攻め入り、龍門庄は足利方の一時、支配下に置かれる。この時に龍門庄は両方から課税されるという複雑な立場にあった。その後、龍門庄は南朝の牧堯観(牧定観の子息)の支配下に入った。堯観は牧(現在の宇陀市大宇陀牧)に館を構え、背後には山城(牧城)を作っている。 南北朝時代が終わると、再び興福寺領となるが、一山越えた多武峰妙楽寺の勢力や小川氏(現在の東吉野村の豪族)の勢力が入ってくるなどしている。特に多武峰とは紛争となった。この時は、多武峰が興福寺の代官となって龍門庄を支配することになったものの、その後も興福寺と多武峰の争いは続いている。 応仁の乱に至っては、龍門庄にも兵火が及び、永正3年(1506年)7月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経が龍門庄に侵入して龍門郷を焼き討ちにしている。この頃から龍門寺は衰え、廃寺となったようである。
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