南北朝時代から隆盛期までとは? わかりやすく解説

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南北朝時代から隆盛期まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:30 UTC 版)

小菅神社 (飯山市)」の記事における「南北朝時代から隆盛期まで」の解説

鎌倉幕府崩壊から南北朝時代始まりころまでには、小菅山を含む小菅荘一帯は、南に高梨氏勢力下の犬飼荘、北に市河氏志久見郷湯山荘に接し両者緩衝地帯として戦略的な要地となっていた。しかし、南北朝騒乱はついにこの地に及び、延文元年1356年南朝正平11年)には、志久見郷侵攻企てた南朝党の高梨氏が逆撃を受けて小菅にて惨敗している。その後高梨氏勢力盛り返し市河氏対す復仇戦に勝利を収めているが、この頃を境に南朝党の勢力衰微し両朝統一趨勢従った以後室町幕府支配安定すると共に小菅山修験霊場としての隆盛期迎えることになる。 この頃小菅山隆盛を示すものとして、この時期行われた元隆寺での造営伝え文書がある。応永13年1422年)には、加耶吉利堂が建立され堂内には近隣土豪らによって著色観音三十三身板絵応永年間在銘)が寄進された。永享2年1430年)からは4年歳月をかけて、元隆寺宮社坊中寺観再建された。永正5年1508年9月には、奥社内の宮殿建立され天文15年1546年)には、鳳凰文透彫奥社脇立二面製作されている。これらの記録からすると16世紀半ばまで、小菅山では造営営々と続けられており、それを可能にするだけの繁栄があったのである。 なお、応永12年1421年)には、将軍足利義持大納言法印忠意に禅林寺永観堂若王子別当職などとともに社領として信濃国小菅荘ほかを安堵したとの記録残されている。この件に関する資料大半蔵する禅林寺若王子社は、もともと後白河院永暦年間熊野三山の土を運んで熊野権現勧請した伝えられる社である。若王子社領として領知されたことを述べるこの文書から、この時期までに小菅山京都支配下におかれていたことが確認できる応仁元年1467年)にも将軍足利義政から大納言法印雅に同様の領知があった。

※この「南北朝時代から隆盛期まで」の解説は、「小菅神社 (飯山市)」の解説の一部です。
「南北朝時代から隆盛期まで」を含む「小菅神社 (飯山市)」の記事については、「小菅神社 (飯山市)」の概要を参照ください。

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