南北朝時代の政治動乱と倭寇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:43 UTC 版)
斎藤満は高麗史にでてくる「倭国」を南朝(征西府)だと推定しており、ほかにも倭寇の首領が日本の精鋭部隊と同じ装備で、南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて日本の正規の精鋭部隊が物資の略奪に参加したという意見もある。 渡辺昭夫は「長い戦乱で食糧を確保することに限界を感じた兵士達が近くに位置する高麗に頻繁に物資を求めに行ったので高麗の水路と地理に詳しくなっていた」と説明している。 稲村賢敷は、倭寇が数十隻から数百隻で重装備の武士も加わって多くの食糧を略奪していることから、南朝方の菊池氏や肥前の松浦党(松浦氏)が北朝との戦いのための物資獲得を目的に行ったとした。なお稲村は倭寇の構成員について、規律があり、戦慣れした武士団だと述べている。稲村は北朝方の九州探題が倭寇と南朝方の征西府を同一視して敵と見做し、かつ明から倭寇の禁圧を求められても征西府が拒否したことも論拠として挙げている。
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