南北朝時代・室町時代
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中世前半を通じて北部では公領制、南部では荘園公領制が貫徹され、基本的には鎌倉幕府の統制の元、国府留守所は維持されていたが、南北朝時代を境に領主間の争いが活発化した。津軽地方から蝦夷地を経て葛西氏に取って代わった檜山安東氏、橘氏に代わり湊安東氏、陸奥から移住した戸沢氏(仙北郡)、小野寺氏(雄勝郡)、大宝寺氏(庄内)、寒河江大江氏(寒河江荘)、陸奥大崎氏の庶流である最上氏(最上郡)、最上氏の更に庶流である天童氏(最上郡・村山郡)、陸奥から進出した伊達氏(置賜郡)などが支配した。
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南北朝時代・室町時代
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後醍醐天皇の討幕運動に足利尊氏・新田義貞ら有力御家人が参入した結果鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる天皇親政を開始する。新政は天皇が中華皇帝的な専制統治を行う方向性を志向しており、唐突な改革による混乱と恩賞のあり方などが武士のみならず公家の不満を招き、離反した尊氏が京都に室町幕府を開いて北朝を立て、吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と対立する(南北朝時代)。 その後南朝の勢力は衰亡するが、尊氏と弟直義が対立する内紛(観応の擾乱)が起き、南朝は混乱に乗じて息を吹き返す。幕府内部での政治抗争は3代将軍足利義満の時代まで続き、抗争により有力守護大名が南朝に奔るといった状態が繰り返される。今川貞世が九州へ派遣されて平定を完了すると、室町幕府の権力は確立され、1392年に義満により南北朝の合一が行われる。これより前の1379年には室町幕府の政治事件「康暦の政変」も起こっており、以後義満は1391年に明徳の乱、1399年に応永の乱を自らの主導により誘発して対抗勢力を駆逐し、やがて天皇の権威にせまる将軍権力を確立する。
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南北朝時代・室町時代
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鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏の興隆に疑心を抱いた後醍醐天皇は、皇子の護良親王を征夷大将軍に任命した。尊氏には、鎮守府将軍などの地位を与えて軍の指揮権を与えなかった。このように、南北朝の時代前後から、後醍醐天皇の周辺では実子=皇子を擁立する動きが出てきた。尊氏の弟、足利直義が相模守に任命される前に、後醍醐天皇の腹心の北畠親房は、実子の顕家を陸奥守として、後醍醐天皇の皇子、義良親王を擁して陸奥に下った。後醍醐天皇は、この後、直義を相模守に任じ、8歳の皇子、成良親王を擁して下ることを許可した。やがて、観応の擾乱が起き、尊氏と直義は反目し合うことになり、南朝方に付いた直義が没した。その直後、南朝方の新田義宗・義興らが上野(群馬)に挙兵し、隣国の信濃の直義派の諏訪氏も、宗良親王を擁して挙兵した。宗良親王挙兵の中心となったのは、神家(諏訪氏)と滋野氏一族だった。宗良親王擁する信濃武士の行軍は、応安7年(文中3年・1374年)に宗良親王が吉野に帰るまで続く。長野県史は、観応の擾乱前夜までの南北朝期における信濃武士を区分けし、「足利氏について奉行となり力を持っていたが、政務を担当することが多く、合戦資料には登場しない氏族」として、諏訪氏の傍流の円忠系とともに、依田氏を挙げている。「ずっと足利がたに属し、各地で転戦した氏族」の中では、小笠原氏が筆頭格となっている。小笠原氏は、政長の代には守護に任命されており、庶流の大井光長が守護代に就任している。大井光長は、小笠原氏の始祖、小笠原長清の孫(あるいは子との説もある)である。 南北朝時代から室町時代にかけて、依田氏から幕府評定衆・奉行衆・奉公衆に少なくとも9人が就いている。足利尊氏の代においては、依田中務大夫入道元義(幕府奉行)、座衛門尉貞行(幕府奉行)、足利義詮・足利義満の代には、左近大夫時朝(評定衆)、足利義持の代には、座衛門大夫秀□(幕府奉行)が就いており、その後は、中務丞秀朝(幕府奉行)、中務丞光朝(幕府奉行)と続く。奉公衆には、依田九郎、依田孫九郎が就いている。幕府の要職に命ぜられるのは建武2年(1335年)から文明年間まで続き、依田氏は在府と在地に分かれる事になる。応永9年(1402年)、室町幕府は信濃国を幕府料国と定めて、幕府奉行人の依田左衛門大夫季□ほか1名を代官として下向させた。 評定衆に21年間就いた朝時は、尊氏の死後、義詮が将軍職につく5日前に開かれた御評定の席にまず奏事役で列席した。その後、諏訪円忠らと共に尊氏の一周忌を取り仕切った。岩清水八幡宮の神殿造営、京都賀茂神社の造営、臨川寺の五山昇格、足利氏の菩提寺等持寺の十刹昇格などを奉行した後、評定衆に迎えられた。 「日本書紀」の「天武紀」には、「天武十三年二月二十八日、三野王、小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣して、地形を看しめたまふ。是の地に都のつくらむとするか」「天武十四年十月十日、軽部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂を信濃に遣わして、行宮を造らしむ」とある。この記録は、天武天皇が信濃への遷都を画していたことを表すが、遷都構想については、佐久郡を候補地とする説もある。室町時代前後から、在地の依田氏は、佐久郡の平原などに進出し、平尾氏、平原氏等を名乗った。信濃守護・小笠原氏の分流である、大井氏に従臣した影響によるところが大きい。鎌倉公方足利持氏の遺児である永寿王丸を扶育し、成年した永寿王丸が鎌倉公方足利成氏として鎌倉府を復興させるなど、大井氏は名門としての責を担った。その大井氏が佐久を所領していたたことから、従臣した依田氏は佐久郡に進出した。ただし、依田氏の佐久郡・芦田への進出を巡り、大井氏に従臣した時期における論争がある。在地の依田氏が大井氏に恭順したのは、永享8年(1436年)に小笠原氏・大井氏との戦いに敗れた後とする解釈がある。長野県史および、長野県佐久市の史書「佐久市志」はともに、「芦田氏は小県郡丸子の依田一族と推定されている」と記し、同解釈に拠る論陣を張っている。その一方で、幕府8代将軍・足利義政が発した、御教書を以って、依田氏の芦田進出の時期を判断する立場もある。足利義政の記したところの「芦田下野守」は、依田氏の同時期の系図・系譜には存在しない。、永享元年(1429年)には、鎌倉時代より続く大井法華堂の先達職に依田氏が就任していた、等の史実に裏付けられたうえで、信濃守護小笠原氏・大井氏の陣営にあった、依田右衛門尉経光が永享8年(1436年)に芦田に進出して芦田氏を名乗ったとする。これによれば、依田氏は、在府での地位を賭するような、足利義政の不興を買う振る舞いはせずに、大井氏との関係を良好に保っていた。足利義政の命を受けて、信濃守護小笠原氏・大井氏陣営が戦ったのは、滋野氏の流れを汲む、芦田氏、海野氏、根津氏であった。 依田庄から芦田郷に入部した依田右衛門経光の子、備前守光徳から芦田姓を称するようになった。その子右衛門太夫光玄には二子があり、前妻との間の子どもである長子の左衛門太夫孝玄のほか、後妻との間に第二子の義玄がいた。後妻は、わが子義玄の家督相続を企て、孝玄を御嶽堂城に移したうえで、乳母と家臣の布施、小平両氏の手で、文明9年(1477年)に謀殺した。芦田城内における相次ぐ事件を受け。義玄は、孝玄の霊を供養するため、芦田、御嶽堂2つの領内に依田大明神を建立したうえで、剃髪し仏門に入り玄栄済と称した。 義玄が没した天文6年(1537年)に、家督を相続した長子、信守は10歳に満たない幼少の身だった。天文10年(1541年)5月、武田信虎は諏訪頼重とともに小県に入り、海野平に祢津、海野を討ち真田氏を追った>。武田信虎は大軍を率いて佐久郡に侵入し、土豪や武将を降伏させた。諏訪頼重は帰途、芦田城を攻略し、幼少の信守を諏訪に連れ去ったうえで臣従させた。翌年の天文11年(1542年)、諏訪頼重は、信虎を退けた武田晴信によって滅ぼされた。 信守は、天文18年(1549年)、居城を芦田城から春日城に移し、永禄3年(1560年)に武田氏へ正式に臣従した。武田氏は、佐久郡平定後に東北信濃を制圧し、さらに西上野に進出した。武田信玄は、永禄9年(1566年)、北条氏に備えるために、武蔵国堺にある上野国の浄法寺を芦田信守に与え周辺を知行地とした。「武田三代軍記」等が示す通り、下野守信守は、武田氏の有力な信濃先方衆となった。武田氏は、躑躅ヶ崎館の周辺に有力な國人(土豪)を屋敷地を与えて住まわせており、下野守信守も屋敷を構えていた。その他の依田流の武家では、相木(依田)市兵衛も屋敷を与えられていた。
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南北朝時代・室町時代
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宍戸氏は一貫して足利氏に味方して各地で戦功をあげ、南朝に与して衰退した小田氏とは対照的な姿を見せる。またこの時期安芸に下向した一族は、安芸国高田郡内に土着し、のちに毛利氏と結んでこの地方にも勢力を築いた。 室町時代、宍戸氏は鎌倉府の関東足利氏に仕え、しばしば京都の幕府への使者を務めるなど、一族の多くが鎌倉府の中枢にあって重きを成し、勢力は最大となる。 戦国時代に入り、宍戸氏はやがて戦国大名として台頭した佐竹氏の常陸統一の勢いに抗し切れず、佐竹氏麾下の武将となった。
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南北朝時代・室町時代
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出自は詳しくわかっていない。九木浦(九鬼浦)に移住した熊野本宮大社の八庄司の一派が地名から九鬼を名乗ったと『寛永諸家系図』に記されているが、異論が多い。南北朝時代に京都で生まれた藤原隆信が伊勢国佐倉に移住したのちに紀伊国九木浦に築城し、九鬼隆信を名乗ったとする説もある。 九鬼氏は熊野で勢力を伸ばせずにおり、3代隆房の次男の九鬼隆良は新天地を求め波切村の川面家の養子となり、波切城城主になった。この時期は貞治年間(1362年 - 1366年)とするのが定説であるが、元中年間(1384年 - 1393年)とする異論もある。隆良は子に恵まれなかったため、志摩和具の和具(青山)氏から養子を迎え、波切九鬼2代目の隆基となった。この時点で本来の九鬼氏の血統は断絶している。 ただし『系図研究の基礎知識』(近藤安太郎、1990年)によれば、3代目とされる九鬼隆良は分家であり、本家は隆良の兄・隆長であるとする(隆良系は7代で絶える)。隆長のあとは光長・政長・政隆・浄隆・澄隆と続き、澄隆の異母弟・光隆が家督を継いだが熊野地方に留まり、光隆の弟の嘉隆は北畠氏に仕えたと伝える。
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南北朝時代、室町時代
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鎌倉幕府が倒れ無主となった北寒河江荘は、南朝側についた寒河江氏が支配したが、北朝の足利尊氏や足利義詮は幾度となく奪還の命を奥州管領らに指示している。鎌倉円覚寺の『吉田方領家年貢返抄』によれば、北寒河江荘の円覚寺領5ヶ郷は室町初期まで荘園として京に貢納していたことがわかる。 寒河江氏により寒河江城が拡張整備され、寒河江川からの用水がひかれるようになると、灌漑を利用して扇状地の開拓が進展した。また、柴橋地域の湿地帯においても、沼川を利用した排水路の開削がなされ干拓が行われた。
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南北朝時代、室町時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 03:35 UTC 版)
南北朝時代に入ると、南朝方結城氏に与えられるが、結城氏は後に北朝に組する。正平11年(1356年)頃、小田島義春の後裔と思われる平長義(備前守)が現れ勇躍するが、程なくこの地域の大部分は最上氏の支配下に入ったものとみられる。中条氏は最上川西岸の谷地に逃れ命脈を保った。
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