南北朝時代、成功の終焉と私称官途
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:54 UTC 版)
「武家官位」の記事における「南北朝時代、成功の終焉と私称官途」の解説
南北朝時代、南朝は北朝との戦いで武士を味方に引き入れる必要があった。北畠親房、新田義興等は自陣営の武士の任官所望を吉野に申請し、恩賞という形で官途を与えていた。やがて足利尊氏・義詮も対抗すべく同様のやり方を取り入れたと考えられている。こうして、観応の擾乱を契機として、官位は恩賞としての性格を持つようになっていた。叙任形態の変化により、貞治5年(1366年)10月に吉田社召功で伊予守に任官した上杉顕定を最後に、成功任官は姿を消す。その後幕府では、恩賞沙汰で官途申請が審議され、推挙が行われた。 成功の消滅によって、一斉同時任官の契機が失われ、官途を求めるものの増大が引き起こされたため、私称官途が黙認され、横行するようになった。これは、ある一定範囲の名に関してのみ、正式な手続きを経ず、名乗る者が上位と仰ぐ存在から承認を受ければ、私的に名乗っても良いと幕府・武家社会の中で暗黙に認められたのではないかと考えられている。成功任官の消滅は、幕府の施策や叙任形態のみならず、その後の武家官位や武家社会に大きな影響を与えたと見られている。 時代は下り、3代将軍足利義満の時代になると、官途は苗字・実名と不即不離の「呼び名」「称号」に近いもの、人格・イエを体現し、室町殿との主従関係を表示する記号となっていった。
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