南北朝時代・終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 16:29 UTC 版)
正平7年/文和元年(1352年)、観応の擾乱直後の武蔵野合戦では高重の子・直重らは足利尊氏方に参戦し、新田義宗を越後に敗走させた。その後、関東管領畠山国清の下で戦功を挙げ、相模国守護職となる。しかし関東の足利体制を固める鎌倉公方・足利基氏の下で、康安2年(1362年)に畠山国清が失脚。河越氏の相模国守護職も解任されてしまう。貞治6年(1367年)4月、足利基氏は遺言で嫡子・金王丸(足利氏満)の将来を河越治部少輔らに託して没するが、翌貞治7年(1368年)2月、河越氏が中核となって高坂氏と共に武蔵平一揆を指揮し、関東管領・上杉憲顕に反乱を起こした。河越館に立て籠もり、数か月にわたって抵抗を続けるが、河越合戦で上杉朝房軍との激戦ののち敗北し、南朝方の北畠氏を頼って伊勢国へと敗走した。これ以降、平安時代以来武蔵国最大の勢力を誇った名族・河越氏は没落した。 河越氏は平安時代末期以降、知行国主や幕府などに伝統ある国衙在庁出身の有力武士と認識され続け、そのために源氏、北条氏、足利氏ら時の権力者に翻弄される結果となった。 応永20年(1413年)の熊野那智大社の記録に「武蔵河越一門」という記録が見られるなど、族滅は逃れていることが確認される。
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