南北朝時代、室町時代とは? わかりやすく解説

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南北朝時代、室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 03:34 UTC 版)

寒河江荘」の記事における「南北朝時代、室町時代」の解説

鎌倉幕府倒れ無主となった寒河江荘は、南朝についた寒河江氏支配したが、北朝足利尊氏足利義詮幾度となく奪還の命を奥州管領らに指示している。鎌倉円覚寺の『吉田方領年貢返抄によれば、北寒河江荘円覚寺領5ヶ郷は室町初期まで荘園として京に貢納していたことがわかる。 寒河江氏により寒河江城拡張整備され寒河江川からの用水ひかれるうになると、灌漑利用して扇状地開拓進展したまた、柴橋地域湿地帯においても、沼川利用した排水路の開削がなされ干拓が行われた。

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南北朝時代、室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 03:35 UTC 版)

小田島荘」の記事における「南北朝時代、室町時代」の解説

南北朝時代に入ると、南朝結城氏与えられるが、結城氏は後に北朝組する正平11年1356年)頃、小田島義春の後裔思われる長義備前守)が現れ勇躍するが、程なくこの地域大部分最上氏支配下入ったものとみられる中条氏最上川西岸谷地逃れ命脈保った

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南北朝時代・室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:13 UTC 版)

出羽国」の記事における「南北朝時代・室町時代」の解説

中世前半通じて北部では公領制、南部では荘園公領制貫徹され、基本的に鎌倉幕府統制の元、国府留守所維持されていたが、南北朝時代を境に領主間の争い活発化した。津軽地方から蝦夷地経て葛西氏に取って代わった檜山安東氏橘氏代わり安東氏陸奥から移住した戸沢氏仙北郡)、小野寺氏雄勝郡)、大宝寺氏庄内)、寒河江大江氏寒河江荘)、陸奥大崎氏庶流である最上氏最上郡)、最上氏の更に庶流である天童氏最上郡村山郡)、陸奥から進出した伊達氏置賜郡)などが支配した

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南北朝時代・室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 12:03 UTC 版)

14世紀」の記事における「南北朝時代・室町時代」の解説

後醍醐天皇討幕運動足利尊氏新田義貞ら有力御家人参入した結果鎌倉幕府滅亡し後醍醐天皇建武の新政呼ばれる天皇親政開始する新政天皇中華皇帝的な専制統治を行う方向性志向しており、唐突な改革による混乱恩賞あり方などが武士のみならず公家の不満を招き離反した尊氏京都室町幕府開いて北朝立て吉野逃れた後醍醐天皇南朝対立する南北朝時代)。 その後南朝勢力衰亡するが、尊氏と弟直義対立する内紛観応の擾乱)が起き南朝混乱乗じて息を吹き返す幕府内部での政治抗争3代将軍足利義満時代まで続き抗争により有力守護大名南朝奔るといった状態が繰り返される今川貞世九州派遣され平定完了すると、室町幕府権力確立され1392年義満により南北朝合一が行われる。これより前の1379年には室町幕府政治事件康暦の政変」も起こっており、以後義満1391年明徳の乱1399年応永の乱を自らの主導により誘発し対抗勢力駆逐し、やがて天皇権威にせまる将軍権力確立する

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南北朝時代・室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 05:00 UTC 版)

依田氏」の記事における「南北朝時代・室町時代」の解説

鎌倉幕府滅亡後足利尊氏興隆疑心抱いた後醍醐天皇は、皇子護良親王征夷大将軍任命した尊氏には、鎮守府将軍などの地位与えて軍の指揮権与えなかった。このように南北朝時代前後から、後醍醐天皇周辺では実子=皇子擁立する動き出てきた。尊氏の弟、足利直義相模守に任命される前に後醍醐天皇腹心北畠親房は、実子の顕家を陸奥守として、後醍醐天皇皇子義良親王擁して陸奥下った後醍醐天皇は、この後直義相模守に任じ8歳皇子成良親王擁して下ることを許可した。やがて、観応の擾乱起き尊氏直義反目し合うことになり、南朝方に付いた直義没した。その直後南朝方の新田義宗・義興らが上野群馬)に挙兵し隣国信濃直義派の諏訪氏も、宗良親王擁して挙兵した。宗良親王挙兵中心となったのは、神家諏訪氏)と滋野氏一族だった。宗良親王擁する信濃武士の行軍は、応安7年文中3年1374年)に宗良親王吉野帰るまで続く。長野県史は、観応の擾乱前夜までの南北朝期における信濃武士区分けし、「足利氏について奉行となり力を持っていたが、政務担当することが多く合戦資料には登場しない氏族」として、諏訪氏傍流の円忠系とともに依田氏挙げている。「ずっと足利がたに属し各地転戦した氏族」の中では、小笠原氏筆頭格となっている。小笠原氏は、政長の代には守護任命されており、庶流大井光長守護代就任している。大井光長は、小笠原氏始祖小笠原長清の孫(あるいは子との説もある)である。 南北朝時代から室町時代にかけて、依田氏から幕府評定衆奉行衆奉公衆少なくとも9人が就いている。足利尊氏の代においては依田中務大夫入道元義(幕府奉行)、座衛門尉貞行幕府奉行)、足利義詮足利義満の代には、左近大夫時朝(評定衆)、足利義持の代には、座衛門大夫秀□(幕府奉行)が就いており、その後は、中務丞秀朝(幕府奉行)、中務丞光朝(幕府奉行)と続く。奉公衆には、依田九郎依田九郎就いている。幕府要職に命ぜられるのは建武2年1335年)から文明年間まで続き依田氏在府在地分かれる事になる。応永9年1402年)、室町幕府信濃国幕府料国定めて幕府奉行人依田左衛門大夫季□ほか1名を代官として下向させた。 評定衆21年就いた朝時は、尊氏死後義詮将軍職につく5日前に開かれた評定の席にまず奏事役で列席したその後諏訪円忠と共に尊氏一周忌取り仕切った岩清水八幡宮神殿造営京都賀茂神社造営臨川寺五山昇格足利氏菩提寺等持寺十刹昇格などを奉行した後、評定衆迎えられた。 「日本書紀」の「天武紀」には、「天武十三二月二十八日三野王小錦下采女筑羅等を信濃遣して地形を看しめたまふ。是の地に都のつくらむとするか」「天武十四十月十日軽部朝臣足瀬、高田首新家荒田尾連麻呂信濃遣わして行宮を造らしむ」とある。この記録は、天武天皇信濃への遷都画していたことを表すが、遷都構想については、佐久郡候補地とする説もある。室町時代前後から、在地依田氏は、佐久郡平原などに進出し平尾氏、平原氏等を名乗った信濃守護・小笠原氏分流である、大井氏従臣した影響によるところが大きい。鎌倉公方足利持氏遺児である永寿王丸扶育し、成年した永寿王丸鎌倉公方足利成氏として鎌倉府復興させるなど、大井氏名門としての責を担った。その大井氏佐久所領していたたことから、従臣した依田氏佐久郡進出した。ただし、依田氏佐久郡芦田への進出巡り大井氏従臣した時期における論争がある。在地依田氏大井氏恭順したのは、永享8年1436年)に小笠原氏大井氏との戦い敗れた後とする解釈がある。長野県史および、長野県佐久市史書佐久市志」はともに、「芦田氏小県郡丸子依田一族推定されている」と記し、同解釈拠る論陣張っている。その一方で幕府8代将軍足利義政発した御教書以って依田氏芦田進出時期判断する立場もある。足利義政記したところの「芦田下野守」は、依田氏同時期の系図系譜には存在しない。、永享元年1429年)には、鎌倉時代より続く大井法華堂先達職に依田氏就任していた、等の史実裏付けられたうえで、信濃守小笠原氏大井氏陣営にあった依田右衛門尉経光が永享8年1436年)に芦田進出して芦田氏名乗ったとする。これによれば依田氏は、在府での地位賭するような、足利義政不興を買う振る舞いはせずに、大井氏との関係を良好に保っていた。足利義政の命を受けて信濃守小笠原氏大井氏陣営戦ったのは、滋野氏流れを汲む芦田氏海野氏根津氏であった依田庄から芦田郷に入部した依田右衛門光の子備前守光徳から芦田姓を称するようになったその子右衛門太夫光玄には二子があり、前妻との間の子どもである長子左衛門太夫孝玄のほか、後妻との間に第二子義玄がいた。後妻は、わが子義玄の家督相続企て、孝玄を御嶽堂城に移したうえで、乳母家臣布施小平両氏の手で、文明9年1477年)に謀殺した。芦田城内における相次ぐ事件を受け。義玄は、孝玄の霊を供養するため、芦田御嶽堂2つ領内依田大明神建立したうえで、剃髪し仏門入り玄栄済と称した義玄没した天文6年1537年)に、家督相続した長子、信守は10歳満たない幼少の身だった。天文10年1541年5月武田信虎諏訪頼重とともに小県に入り海野平に祢津海野討ち真田氏追った>。武田信虎大軍率いて佐久郡侵入し土豪武将降伏させた。諏訪頼重帰途芦田城を攻略し幼少の信守を諏訪に連れ去ったうえで臣従させた。翌年天文11年1542年)、諏訪頼重は、信虎退けた武田晴信によって滅ぼされた。 信守は、天文18年1549年)、居城芦田城から春日城移し永禄3年1560年)に武田氏正式に臣従した。武田氏は、佐久郡平定後に東北信濃制圧し、さらに西上野に進出した武田信玄は、永禄9年1566年)、北条氏備えるために、武蔵国堺にある上野国浄法寺芦田信守与え周辺知行地とした。「武田三代軍記」等が示す通り下野守信守は、武田氏有力な信濃先方衆となった武田氏は、躑躅ヶ崎館周辺有力な國人土豪)を屋敷地与えて住まわせており、下野守信守も屋敷構えていた。その他の依田流の武家では、相木依田市兵衛屋敷与えられていた。

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南北朝時代・室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 20:56 UTC 版)

宍戸氏」の記事における「南北朝時代・室町時代」の解説

宍戸氏一貫して足利氏味方して各地戦功をあげ、南朝与して衰退した小田氏とは対照的な姿を見せる。またこの時期安芸下向した一族は、安芸国高田郡内に土着し、のちに毛利氏結んでこの地方にも勢力築いた室町時代宍戸氏鎌倉府関東足利氏仕え、しばしば京都幕府への使者務めるなど、一族多く鎌倉府中枢にあって重き成し勢力最大となる。 戦国時代入り宍戸氏はやがて戦国大名として台頭した佐竹氏常陸統一勢い抗し切れず佐竹氏麾下武将となった

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南北朝時代・室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:45 UTC 版)

九鬼氏」の記事における「南北朝時代・室町時代」の解説

出自詳しくわかっていない。九木浦九鬼浦)に移住した熊野本宮大社八庄司一派地名から九鬼名乗ったと『寛永諸家系図』に記されているが、異論が多い。南北朝時代京都生まれた藤原隆信伊勢国佐倉移住したのちに紀伊国木浦築城し、九鬼隆信名乗ったとする説もある。 九鬼氏熊野勢力伸ばせずにおり、3代隆房の次男九鬼隆良は新天地求め波切村川面家の養子となり、波切城城主になった。この時期貞治年間1362年 - 1366年)とするのが定説であるが、元中年間1384年 - 1393年)とする異論もある。隆良は子に恵まれなかったため、志摩和具和具(青山)氏から養子迎え、波切九鬼2代目隆基となった。この時点で本来の九鬼氏血統断絶している。 ただし『系図研究基礎知識』(近藤安太郎、1990年によれば3代目とされる九鬼隆良は分家であり、本家は隆良の兄・隆長であるとする(隆良系は7代絶える)。隆長のあとは光長・政長・政隆・浄隆・澄隆と続き、澄隆の異母弟・光隆が家督継いだ熊野地方留まり、光隆の弟の嘉隆北畠氏仕えた伝える。

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