排水路の開削
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:30 UTC 版)
しかしその後、長田川や稗田川などの水が油ヶ淵に注ぐようになり、沿岸の村々が大雨の際に浸水被害を受けるようになったため、江戸の商人である伏見屋又兵衛が新たな排水路建設を行い、油ヶ淵の周囲と矢作川沿いに新田(伏見屋新田)を築いたほか、1701年(元禄14年)に大浜村千福で排水する新しい水路を計画。1704年(宝永元年)までに現在の蜆川・新川に相当する排水路が建設された。 1908年(明治41年)には油ヶ淵を水源とする平和用水が完成し、1975年(昭和50年)まで農業用水として用いられた。豪雨時に沿岸の水田への冠水被害が続いたため、1935年(昭和10年)には新たな開削工事により、高浜川が完成した。1967年(昭和42年)以降は総合遊園地として整備が進み、釣り場・花ショウブ園などが設けられた。
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