日本の封建制(フューダリズム)
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「封建制」の記事における「日本の封建制(フューダリズム)」の解説
封建制がフューダリズムの訳語として用いられるようになってから日本で封建制とされてきた体制は、荘園公領制による統治などの国内的要因が主となって形成された(天皇やその藩屏たる貴族は権威を『根拠付ける』存在である)。西欧のフューダリズムで複数の契約関係や、短期間での契約破棄・変更がみられたのと同様、日本でも実際のところ戦国時代まで主従関係は後述の「御恩と奉公」の言葉で表現されるように一部双務的・流動的なものであり、「二君にまみえず」「君、君たらずとも臣、臣たれ」という語に示されるような片務的な奉仕と忠誠が求められたのは、江戸時代に入ってからである。 日本の封建制の成立をめぐっては、いくつかの説がある。ひとつは鎌倉幕府の成立によって「御恩と奉公」が既に広義の封建制として成立したとする説で、第2次世界大戦前以来、ほとんどの概説書で採用されていた。この考え方では、古代律令国家の解体から各地に形成された在地領主の発展を原動力として、領主層の独自の国家権力として鎌倉幕府が形成された(鎌倉幕府の力は、日本全国に及んでいたわけではない)とみなす。従って承平天慶の乱(承平5年、935年)がその初期の現われとみなされる。一方、日本中世史と日本近世史の間で、1953年から1960年代にかけて日本封建制成立論争が展開した(太閤検地論争とも呼ばれる)。その口火を切った安良城盛昭は、太閤検地実施前後の時期の分析から荘園制社会を家父長的奴隷制社会(=古代)とし、太閤検地を画期として成立する幕藩体制を日本の封建制と規定した。他には、院政期以降を成立期とする説(戸田芳実など)、南北朝内乱期を成立期とする説(永原慶二など)が提起された。 中国の儒家思想で当てはめた場合、平安期までが中央から派遣される地方官たる国司が地方の統治単位である令制国を実効統治する「郡県制」であり、鎌倉期以降が在地領主である武士が荘園・国衙領単位で実効統治を行う封建制となる(中国史学に基づくと12世紀末から19世紀が封建制となる)。これに対し、ドイツに留学し、ヨーロッパ史学の影響を受けた福田徳三は『日本経済史論』(1907年)において、延喜の治後、931年から1602年までを西欧のフューダリズムと似た封建時代と解し、1603年から1867年(近世江戸期)を「専制的警察国家」(絶対主義)と定義し、続いて法制史家の中田薫が「「コムメンダチオ」と名簿捧呈の式」(1906年)を発表し、日欧の封建制はともに主従性(家人制)と恩貸制(知行制)とし、その開始を平安中期においた。
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日本の封建制
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今谷明は、日本の勝因として、その理由を強固な組織としての封建制とそれに基づく挙国一致体制の完備によるという見解を出している。今谷明は、蒙古軍が制圧できなかったエジプトのマムルーク朝 や神聖ローマ帝国 と日本の3つの地域に共通するものとして、強固な組織としての封建制があることを指摘している。今谷はマムルーク朝についてイクター制研究で著名な佐藤次高の説明を引用し、マムルークが主君であるスルターンから与えられる地租(ハラージュ)等の租税徴収権とその当該地であるイクターを「地頭職と読み換えれば、日本の御家人制にそっくりの構造が浮かび上がる」と述べ、加えてスルターンとの強い忠誠心やマムルーク相互の間での強い仲間意識など日本の御家人制との共通点を指摘している。また、マムルーク軍団の源流としてアラブ征服時代のアラブと征服地域の非アラブとの間に行われたパトロン(保護者) - クライアント(被保護者)の関係、「ワラー関係」についての清水和裕の研究 にも触れ、清水の「主人と従属者の間に結ばれる、法的に保証された個人的紐帯であった」という説明から、これらも「日本の武士団の勃興とその封建制的関係に極めて似通った軍団の性格がみられるということになろう」と評している。
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