イクターとは? わかりやすく解説

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イクター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 13:42 UTC 版)

イクターアラビア語: إقطاع‎, EALL方式ラテン文字転写: iqṭāʿ)は、イスラーム圏において、主として軍人に対して与えられた徴税権およびその権利が設定された土地を指す用語である。イクターの保有者はムクター(ムクタア/muqṭaʿ)と呼ばれ、原則としては君主に対する軍事奉仕義務を負った。イクターを基盤とした社会・経済体制をイクター制と呼び、10世紀半ばにイラク地方で成立して以降、近代に入るまでイスラーム圏の広い範囲で類似した体制が構築され発展した[1][2]イランサファヴィー朝(1501年-1736年)のソユールガール[注釈 1]ガージャール朝(1779年-1922年)のトゥユール[注釈 2]と呼ばれる封有地、そしてバルカン半島アナトリアレヴァントエジプト・イラクを支配したオスマン帝国(1299年-1922年)のティーマール英語版はイクター制の発展形態の1つであり、イランでは19世紀、オスマン帝国支配地では17世紀頃までこうしたイクター制の流れを組む、あるいは同様の制度が施行された[2]


注釈

  1. ^ ソユールガール(soyūrghāl)は元来はモンゴル帝国のソユルガル(Soyurghal)と呼ばれる制度に由来する。イルハン朝を通じて西アジアにも導入された。代の漢訳では「恩賜」と訳され、勲功に対して与えられる世襲の特典であり、食邑、戦利品への権利、特定の刑罰の免罪特権、放牧地の使用権など複合的な権利からなった。この語はトルコ語(テュルク語)を経てペルシア語にも入り、イランではイクターの語に代わって用いられた[3][4]
  2. ^ トゥユール(Tuyūl)はトユール(toyūl)とも呼ばれ、イクターと同様に俸給にとして与えられた一時的な徴税権の付与を指す用語。東トルコ語のティメック(ti-mäk)という用語に由来する。トゥユールの所有者はトゥユールダール(tuyūl-dār)と呼ばれ、ソユールガールと異なり世襲権が無かったが、次第に世襲化の傾向が強まった[5]
  3. ^ 初期イスラーム期において「イクター(Iqṭā' al-tamlīk、私有のイクター、所有権の授与)」が設定された土地(カティーア)はムスリムのミルク(私有地/milk)であった。このカティーアを授与されたムスリムはカティーアからの収入の一部を十分の一税(ウシュル)として納入する義務を負ったが、これは軍事奉仕の引き換えに与えられる恩賞ではなくあくまで私有地に設定された税であった[6]。一方の私領地(ダイア/ḍay‘a)はムスリムの大土地所有地の他、私有地一般を意味する用語としても使用され、後者の意味で使用される場合には所有者がムスリムであるかどうかは区別されなかった。カティーアとダイアは共に私有地(ミルク)であったが、同一の土地がカティーア、ダイアと同時に呼ばれることは無く、両者は注意深く使い分けられていた[7]。カティーアもダイアも所有権が設定され相続・売買・贈与の対象となる資産であったが、カティーアは理念上は上位者からムスリムへの授与によって成立するものであるのに対し、ダイアは成立に際しそのような上位者の授与を必要としなかった[7]
  4. ^ ヒドゥマという用語自体は必ずしもイクターの授与のみと結びついた用語ではなく、俸給の授与や地位の保証といったものに付随した主従関係に伴う奉仕義務関係や、一族の年長者に対する奉仕、師に対する姿勢等の意味合いを含んだ[28]
  5. ^ エジプトがモンゴル系勢力の支配下に入ったことはないが、1262年11月にジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)からフレグ・ウルス(イルハン朝)に派遣された200騎の援軍は、後にフレグとの関係が悪化したために家族ともどもマムルーク朝支配下のシリアに移動した。これがマムルーク朝領内への最初のモンゴル人来住者(ワーフィディーヤ)の登場になる[46]
  6. ^ こうした「荒廃地」イクターは勧農の目的で設置されたとも考えられるが、実際には既にモンゴル軍人たちが経営した私有地に法的体裁を与え、その無秩序な拡大を防止することに重きが置かれていたと考えられる[72]
  7. ^ アシールは捕虜を意味するアラビア語から借用されたペルシア語の名詞である。グラームもアラビア語で、マムルークなどと同じく奴隷などと訳される[73]
  8. ^ モンゴル語のkötölči / kötelčiからペルシア語に借用された用語で、原義は馬飼い、馬丁、ラクダ飼いである[73]
  9. ^ ただし、トルコ(テュルク)系勢力によるインド侵入・征服を「イスラームの征服」と表現するのは必ずしも実体を正しく表すものではないという。荒松雄はデリー・スルターン朝の成立過程について次のように述べている。「ガズニー・ゴール両勢力のインド侵入からインド最初のサルタナット成立に至る歴史過程を、わが国で屡々『イスラムの侵入・征服』あるいは『イスラム勢力の征服』といってきたのは、宗教と政治・社会の関係について言葉を厳密に用いる場合には正しい表現とはいえない。侵入したのはトルコ族の勢力であって、イスラムの宗教ではないのである。なるほど彼らはムスリムすなわちイスラム教徒だったし、またそのインドへの侵入に際しては異教徒の打倒・改宗を叫び、聖戦(ジハード)の旗印を掲げた。彼らムスリムには、個人としても、集団または権力の立場においても、異教徒の打倒や改宗・宣教などの宗教的パトスと使命感とがつねに存在していた。しかし、筆者自身別の機会に述べたように、彼らトルコ系ムスリムの侵入・征服は、第一義的には政治的・経済的企図に基づくものであり、いわば世俗的・非宗教的な目的のもとに計画・実行されたものである。この点を強調すれば、聖戦(ジハード)とは、彼らの侵入・征服を正当化するためのスローガンであったともいえる[86]{。」

出典

  1. ^ a b c d e 岩波イスラーム辞典, pp. 108-109, 「イクター制」の項目より
  2. ^ a b c 佐藤 1986, p. 1
  3. ^ a b 村上 1961
  4. ^ コトバンク、「ソユールガール」の項目より
  5. ^ コトバンク、「トゥユール」の項目より
  6. ^ 嶋田 1996, p. 179
  7. ^ a b 嶋田 1996, p. 180
  8. ^ a b c d e 佐藤 1986, p. 5
  9. ^ a b c 佐藤 1986, p. 2
  10. ^ 清水 2005, p. 99
  11. ^ a b c d 清水 2005, p98
  12. ^ 佐藤 1986, p. 66 の引用より孫引き。
  13. ^ 佐藤 1986, pp. 55-56
  14. ^ 佐藤 1986, pp. 56-58
  15. ^ 佐藤 1986, pp. 60-61
  16. ^ 佐藤 1986, pp. 62-63
  17. ^ a b c d e 佐藤 1986, pp. 64-65
  18. ^ 佐藤 1997, p. 197
  19. ^ 佐藤 1986, p.73
  20. ^ 佐藤 1997, p. 198-199
  21. ^ 佐藤 1986, p. 74
  22. ^ 佐藤 1986, pp. 74-76
  23. ^ 佐藤 1978, p. 62
  24. ^ a b c 佐藤 1978, p. 63
  25. ^ a b c 佐藤 1997, pp. 199-200
  26. ^ 佐藤 1978, p. 89
  27. ^ a b c 佐藤 1986, p. 118
  28. ^ a b 柳谷 2013, p. 575
  29. ^ a b 佐藤 1986, p. 119
  30. ^ a b 佐藤 1986, p. 120
  31. ^ a b 佐藤 1986, p. 121
  32. ^ 佐藤 1986, p. 122
  33. ^ 佐藤 1986, p. 123
  34. ^ 佐藤 1986, p. 124
  35. ^ 佐藤 1986, p. 117
  36. ^ 佐藤 1986, pp. 125-126
  37. ^ 佐藤 1986, pp. 126-127
  38. ^ a b 佐藤 1986, p. 127
  39. ^ 熊倉 2019, p. 4
  40. ^ 佐藤 1986, p. 155
  41. ^ 佐藤 1986, p. 163
  42. ^ a b 佐藤 1986, p. 164
  43. ^ 佐藤 1986, p. 180
  44. ^ 佐藤 1986, p. 181
  45. ^ 佐藤 1986, p. 184
  46. ^ 佐藤 1986, p. 191
  47. ^ 佐藤 1986, p. 193
  48. ^ 佐藤 1986, p. 194
  49. ^ 佐藤 1986, p. 211
  50. ^ 佐藤 1986, p. 222
  51. ^ 佐藤 1986, p. 238
  52. ^ 佐藤 1986, p. 244
  53. ^ 佐藤 1986, p. 248
  54. ^ a b c 五十嵐 2011, p. 5
  55. ^ 佐藤 1986, p. 245
  56. ^ 五十嵐 2011, p. 13
  57. ^ 五十嵐 2011, pp. 13-16
  58. ^ a b 五十嵐 2011, p. 16
  59. ^ 五十嵐 2011, p. 42
  60. ^ 五十嵐 2011, pp. 42-43
  61. ^ 五十嵐 2011, p. 44
  62. ^ a b 五十嵐 2011, pp. 65-66
  63. ^ 坂本 1981, p. 31
  64. ^ 坂本 1981, p. 32
  65. ^ a b c 坂本 1981, p. 33
  66. ^ 「商税」という訳語はコトバンク、「タムガ」の項目より
  67. ^ 坂本 1981, p. 35
  68. ^ a b 坂本 1981, p. 36
  69. ^ a b 坂本 1981, p. 40
  70. ^ 坂本 1981, p. 43
  71. ^ 坂本 1981, p. 44
  72. ^ 坂本 1981, p. 49
  73. ^ a b 坂本 1981, p. 45
  74. ^ 坂本 1981, p. 47
  75. ^ a b 坂本 1981, p. 52
  76. ^ a b c d e f g 岩波イスラーム辞典, pp. 648-649, 「ティマール制」の項目より
  77. ^ 三沢 2006, p. 78
  78. ^ a b 三沢 2006, p. 79
  79. ^ 齋藤 2009, p. 80
  80. ^ コトバンク、「イクター制」の項目より
  81. ^ a b 三沢 2006, p. 80
  82. ^ a b 三沢 2006, p. 83
  83. ^ a b 荒 2006, p. 11
  84. ^ 三田 2007, p. 25
  85. ^ 荒 2006, p. 24
  86. ^ 荒 2006, pp. 24-25
  87. ^ a b c 三田 2007, p.38
  88. ^ 荒 2006, p. 27
  89. ^ a b 荒 2006, p. 126
  90. ^ コトバンク、「ジャーギール」の項目より





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