イクター制の発展と普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:43 UTC 版)
...トルコ軍人(Atrāk)が(これらの地域を)支配し、徴税官の権利を侵害して彼らを圧迫したので、徴税官たちはトルコ軍人に多額の賄賂(marāfiq)を贈らねばならなかった。一方、トルコ軍人は寄進(iljā)の手段によって私有地(milk)を取得し、農民を彼らの保護下においた(ḥāmū)。こうして彼らは国庫の取り分(ḥuqūq bayt al-māl)を抑えてしまったから、徴税官たちはターニーからの取り分を徴収するのにトルコ人奴隷兵に頼らねばならなくなった。トルコ軍人はタスビーブ(俸給分の金額の指定)を要求すると同時に、国庫の取り分をも獲得したが、やがてダイラム人もこれに模倣するに至った... -イブン・ミスカワイフ『年代記(Tajārib al-Umam)』 イラク地方ではイクターとして分配される農村部の土地が拡大するにつれ社会の再編が進展した。従来、地方を監督し水利設備の管理・種子の支給(勧農 / イマーラ / ʿimāra)を実施すると共に徴税を担当していた徴税官(アーミル / ʿāmil)や徴税請負人(ダーミン / ḍāmin)の権威は低下し、イクター保有者が農村を支配するようになっていった。 イマーラの義務は建前上、徴税官らに代わってイクター保有者に課せられていたが、イクター制が初めて導入された当初、行政実務に暗く農村の安定的な経営に関心の薄い軍人のイクター保有者らは、イマーラの義務を果たすこと無く農村からの収益を増加することに注力し、その結果として保有するイクターの農村が荒廃し収益が減ると代替地のイクターを新たに要求するような行為が横行した。イクターを実際に管理するのはイクター保有者のトルコ人奴隷兵(ギルマーン、アトラーク、マムルーク等と呼ばれる)やその一族郎党、あるいは彼らが私的に抱えていた書記(クッターブ / kuttāb)たちであった。一方で、それまで徴税官(アーミル)や有力者に仕えていた公的な書記(カーティブ / kātib)らがその実務能力を買われてイクター保有者に仕えるようになっていった。 イラク(およびイラン)の農村部では村長(ディフカーン / dihqān)やターニー(tānī)と呼ばれる富裕な農民が力を持っていた。ディフカーン(デフカーン)はイスラームによる征服以前から村落の有力者であり続けた階層であり、ターニーはその起源は不明であるが大土地所有者と中規模農民の中間に位置付けられる富農であった。彼らは少なくともブワイフ朝の勢力拡大以前までは村落部の有力者であり、ムザーリウーン(muzāri'ūn)、アカラ(akara)などと呼ばれる一般の自作農・小作農とは明確に異なる社会階層を形成していた。しかし、イクターが普及すると共にディフカーンは史料から全く姿を消し、ターニーは国家から提供されていた水利整備が失われると共にイクター所有者からの収奪に晒されて離散を余儀なくされていった。また、逃亡を選ばなかったターニーは、イクター所有者からの圧迫を甘んじて受け入れるか、所有する土地を「提供(タスリーム / taslīm)」することでイクター所有者の庇護を受けるという道を選ばざるを得なくなっていった。 ブワイフ朝は軍事力を担う軍人たちや服属した旧支配者へのイクター授与によって主従関係を確認し支配体制を構築することができたが、徴税権を授与された軍人たちの統制を維持することは難しく農村の荒廃が進展し、さらにイクターの対象となっていなかった土地からの徴税請負も実質的に機能しなくなった。そのため10世紀末には徴税の実効性を確保し、またイクター所有者の農村支配を統制するべく総督(ワーリー/wārī)が地方に派遣されるようになった。総督に対してはある地方の庇護権(ヒマーヤ/ḥimāya)が与えられ、任地の秩序の維持、徴税、通商の保護などが任された。このような総督の権能は農村支配者として私的に庇護権(ヒマーヤ)を行使していたイクター所有者たちの強い反発を招き、武力衝突さえ発生するようになった。しかし、ブワイフ朝の君主(大アミール)はこれを調停する能力を欠いており、イクター制の導入と前後する社会の変動と政情不安が解決されることのないまま、中央アジアから到来した遊牧民オグズが建てたセルジューク朝が1055年までにブワイフ朝に代わってイラク、イラン高原を支配下に置いた。 セルジューク朝はブワイフ朝が構築したイクター制を継承したが、セルジューク朝期のイクター制については史料の欠如のために不明点が多い。日本の研究者佐藤次高の推定によればセルジューク朝でのイクター制の進展は次のように進んだ。成立後のセルジューク朝はブワイフ朝期に荒廃したイラク・イランの農村の復興と、アーザルバーイジャーンやハマダーン地方に移動してきた遊牧トルコマーンの定着という二つの大きな政策的課題を抱えていた。このような状況に対し、宰相ニザーム・アル=ムルクはイクター保有者の持つ権利義務の明確化や、定期的なイクターの入れ替えによる独立勢力の形成防止、地方への調査官の派遣などの原則に従ったイクター制の改革を実施したと見られる。またセルジューク朝期には軍人に授与される旧来の軍事イクターと並んで、スルターン(君主)とその一族や、有力なアミール(将軍・太守)が保有する大規模な行政イクター(徴税権の他、行政権も併せ持つ大規模なイクター)が拡大したが、ニザーム・アル=ムルクの改革ではこの二種のイクターを統合し原則に従って管理統制することが試みられたと見られる。そしてセルジューク朝の後、シリアを支配したザンギー朝(1127年-1250年)下でもイクター制を基盤とした政権運営が行われたと考えられる。そしてザンギー朝で施行されたイクター制はさらに、ファーティマ朝(909年-1171年)に代わってアイユーブ朝(1169年-1250年)を建てエジプトの支配権を握ったサラーフッディーン(サラディン)によってエジプトへも導入された。
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