イクター制の成立
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アッバース朝(750年-1258年)のカリフ(ハリーファ)はイスラームの最高権威者であったが、9世紀半ば頃以降、トルコ人などを中心とした奴隷軍人(アトラーク、グラーム、あるいはマムルーク)の台頭や、イランのサーマーン朝(873年-999年)、エジプトのトゥールーン朝(868年-905年)の自立によって実質的な支配地が縮小していった。さらに国有地(サワーフィー/ṣawāfī)からムスリムに与えられる土地(カティーア/qaṭī‘a)や、商人や官吏が売買や寄進を通じて所有権を持った私領地(ダイア/ḍay‘a)の拡大によって大土地所有が進展し、それと反比例して国家が徴税を実施可能な領土が減少したため、アッバース朝の財政は悪化した。初期イスラーム期以来、軍人に対する俸給(アター/`Aṭā')は官僚機構を通じて徴収された税を財源として支給する形式が中心であった(アター制)。しかし、財政悪化に伴い軍人への俸給支払いを継続することが困難になっていった上、徴税自体も徴税請負という形で委託することが一般化して国家の手を離れていった。 このような中、946年にイラクを征服しアッバース朝のカリフを庇護下に置いたブワイフ朝(932年-1062年)のアミール、ムイッズ・アッ=ダウラ(英語版)は、軍人に対して俸給の代わりに一定の土地のイクター(徴税権)を与え、同時に当該地域の管理も委ねる体制を採用した(軍事イクター)。一般にこれがイクター制の成立とされる。ブワイフ朝のイクター授与は当初はイラクの一部の地域のみで行われ、対象者も軍司令官(qā'id)およびトルコ人傭兵に限られていたが、ブワイフ朝中期までにはイラク全域からアーザルバーイジャーンおよびイラン高原にまで対象地域が広がり、授与対象者も広く軍人全体、さらには征服地の旧支配者にまで広がり、国家を支える根幹的な制度となっていった。 現代の学者によってイクター制と呼ばれる社会・経済体制は上記のような経過を経て10世紀半ばのイラクで成立した。ただし、イクターという用語は初期イスラーム時代から使用されているものであった。カティーアの授与もイクターの授与にあたる。イスラーム法学においては元来、イクターは「私有のイクター(Iqṭā' al-tamlīk)」と「用益のイクター(Iqṭā' al-istighlāl)」という2つの型に分類された。これらは「国家」から個人に対して与えられる俸給の代わりに授与される土地、あるいは土地から得られる税に対する権利を指す用語であった。「私有のイクター」は地租(ハラージュ/kharāj)や十分の一税(ウシュル/'ushr)などを支払う代わりに個人に与えられた私有地であり、「用益のイクター」は俸給(アター/`Aṭā')の代わりに与えられた租税の取り分への権利を指した。イクターという用語の意味はその後拡大し、様々な税に対する徴税請負権を指す用語としても使用されるようになった。ブワイフ朝で行われたイクター(軍事イクター)の授与は法学的には「用益のイクター」の一種に分類されると考えられるが、後の時代にはイクターという用語は専らブワイフ朝で実施されたような形態のものを指して使用されるようになっていった。 イクター制の成立はイスラームにおける税制上の画期と評される。従来の土地制度・租税徴収の根幹となっていた土地(カティーア)や私領地(ダイア)等は実態はどうあれ、必ず「所有者の取り分」とは別に「国庫の取り分(ḥuqūq bayt al-māl)」が理念上設定されており、所有者は農民から得る小作料とは別に原則として「国庫の取り分」を納付しなければならなかった。それに対し、「軍事イクター」として成立した新しい権利は、イクター保有者(ムクター / muqṭaʿ)に対して「国庫の取り分」の徴収権を与えるものであったことが大きな特徴である。これによって、「所有者の取り分」ではなく「国庫の取り分」を与えるという形式をとって別人が所有する私領地等であってもイクターを割り当てることが可能であった。さらに、イクター所有者と私領地の所有者が同一人格であった場合、その人物は「所有者の取り分」と「国庫の取り分」全てに対する権利を所有しており、その領地から国家の権利を排除した経営が可能となった。
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