イスラーム期とは? わかりやすく解説

イスラーム期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:14 UTC 版)

ペルシア人」の記事における「イスラーム期」の解説

勃興から短期間のうちにサーサーン朝の旧域をほとんど支配するいたったイスラーム勢力のもとでは、当初サーサーン朝地方行政組織温存され、サーサーン朝人々ゾロアスター教信じペルシア語母語とするままイスラーム勢力支配下入った初期イスラーム史で「ペルシア人」といわれているのはこうしたサーサーン朝の人である。 また、アラブ人は彼らを前述したようにアジャム呼んだが、アラビア語史料上のアジャム歴史叙述の上では「ペルシア人と言い換えられることがほとんどである。アッバース朝革命でしばしば言及されるペルシア人」は、こうしてアラブに対してアジャム呼ばれたイラン高原周辺の人々であり、アッバース朝期イラン成立した諸王朝が「ペルシア人王朝」と呼ばれるのは、これらを建国した王家アラブではなくアジャム出自をもっていたからである。 後の時代にこの地方歴史新たな担い手としてテュルク系民族流入してくると、歴史叙述上のペルシア人」はテュルクに対してイラン人あるいはタジク人自称した人々を指すようになるサファヴィー朝シャイバーン朝のもとでのイラン世界東西文化が進むと、歴史叙述使われるペルシア人」はサファヴィー朝治下の、主にシーア派信仰するペルシア人たちを限定的に指すことが増え狭義の「ペルシア人」である現在のファールスィーに意味あいが近くなる。これに対してシャイバーン朝以降中央アジア方面では「タージーク」という記述多くなり、中央アジアペルシア語を語る人びとを「ペルシア人」と呼ぶことは相対的に減少するガージャール朝のころになると、日本語歴史叙述ではもはや「ペルシア人」という呼称はあまり用いられず、もっぱらイラン人」となる。現代文脈では、イラン人のうち特に民族分類上「ファールスィー」に属する人を特に指したいときにのみ「ペルシア人」が使われていると言ってよい。

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イスラーム期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:20 UTC 版)

ユーフラテス川」の記事における「イスラーム期」の解説

.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ナジュム城(英語版)(左)は三方蛇行するユーフラテス川囲まれマンビジ土手の上に立つ。右はラッカ流れユーフラテス川ユーフラテス川現在のトルコ領にあたる山間部抜けると、乾燥した気候台地潤して現在のイラク領にあたる下メソポタミアに入る。アラビア語などでは、ユーフラテス川東西分割する台地東側が「ジャズィーラ」、西側が「シャーム」と呼ばれそれぞれ内部多様な自然環境包含しながらも長い歴史により、それぞれ一つまとまった地域として統合されてきた。ジスル・マンビジとラッカが、中世前半までのユーフラテス川の2大渡河ポイントとして、ジャズィーラシャーム結んでいた。ジスル・マンビジはマンビジの町から東にあり、のちにはナジュム城(英語版)が築かれることになる。ジスル・マンビジとラッカの間にあるマスカナ(アラビア語版)より下流では川舟航行可能になり、スィッフィーンの古戦場もこのあたりである。 下メソポタミアはアーナ(アラビア語版)のからはじまり、海に至る地域である。アーナ(アラビア語版)は中世にはすでに、ナツメヤシ栽培で有名であった。アーナから少し下ったアンバールより下流は、古代より運河張り巡らされてきた地域である。前近代、特に9世紀から12世紀までのイスラーム圏では、宗教的情熱冒険心満たすための旅行増え、そのための道案内書物としておびただしい数の地理書書かれた。それらが描写するユーフラテス川下流域の、本流運河、そして町の位置関係確認すると、現在と異なる点が多々あり、書かれ年代異な地理書間でも相矛盾する。これは「ユーフラテス」と呼ばれる川の流路物理的に何度も変わり(あるいは人為的に変更され)、あるいは、ひとびと認識上で変化があったためである。なお、ユーフラテス川流路時代によって異な場合があることについては、この時代地理学者認識しており、例えマスウーディーは、ヒーラにぎわっていた頃、ナジャフユーフラテスの川の底にあって、そこから海へ行く船が出ていたなどということ書いている。 しかしながら、おのおのの時代において、ユーフラテス川及び付随する運河低地部メソポタミアどのような流路流れていたのか、その変遷どのようなものであったかについては史料乏しく、ほとんど明らかにされていないわかっていることとしては、ユーフラテス川がシャットルアラブでティグリス川合流するようになったのは、ごく最近のことであるというようなことである。 ところでムスリムの間では、アブー・フライラ英語版)という人が預言者ムハンマドから聞いた話として、ユーフラテス川干上がる川底から宝の山現れ、これをめぐって殺し合い起きるだろう、こうなったらいよいよ最後の審判の日が近い、というような話が伝えられている。この伝承(ハディース)の法学者解釈としては、宝が全ムスリム帰属するからその取得禁じられるのだという解釈13世紀スファークスのウラマー、イブヌッティーンの説)や、殺し合い発生するから取得禁じられるのだという解釈15世紀ウラマーイブン・ハジャルの説)がある。他方この伝承は、ユーフラテス川川底から宝が出現するのと同時にマフディー出現し続いて預言者イーサー再臨するという具体的なイメージイスラーム終末論もたらしたアラビア語では下メソポタミアのことを「イラーク」という。より詳細にはバスラ南郊を南限として前出のアーナやティクリートまであたりである。イラーク正統カリフアリー統治したこともあって中世通して反政府シーア派さまざまな活動行った暗殺されアリー墓廟英語版)があるナジャフフサイン殉教の地カルバラーはいずれユーフラテス川中流域右岸にある。失敗終わったムフタール英語版)の乱やザイドの蜂起英語版)もユーフラテス川灌漑土手上に形成され軍営都市クーファ背景起きた事件である。 ティグリスユーフラテス堆積作用によって作られ沖積平野であるイラークがんらい肥沃な土地であって沙漠遊牧民ベドウィン次々と吸引しその内定住させていくプロセス(この歴史的プロセスを Bedouinization といい、10世紀後半地理学者イブン・ハウカル英語版)の著作など史料研究されている)を可能にするほどの地力があった。しかし地力時代が下るにつれ衰えた中世後期からユーフラテス川流域支配した政治権力はどれも短命非力であり、他国争ってばかりいたので、河川整備への大規模投資はなかった。16世紀前半こうした状況変化訪れる。 1534年オスマン帝国の「立法スルタンスレイマン1世親征によりバグダード無血開城させ、イラーク版図加えたこのためユーフラテス川では、上流山間部から中流台地下流低地河口まで、単一政治権力による支配が及ぶようになるという、この川と人類関わり長い歴史の中では非常に珍しい状況生まれたスレイマン1世はみやこのイスタンブルに戻る1536年までの間、ユーフラテス川をかけ、船着場整備し造船所城砦建築し軍事・警察機能上下メソポタミアにゆきとどかせた。これら一連の施策には、あらたに帝国一部としてサファヴィー朝対峙する最前線となるティグリス・ユーフラテス川流域に、オスマン帝国の支配確立させようとする意図があった。橋梁船着場などの社会資本整備されのみならず水源地から河口まで、ひとつの政治権力オスマン家)の権威服し、ひとつの法制スンニー派法学)を用い、ひとつの行政語(トルコ語)で中央政府トルコ語版)からの行政上の指令受け取ようになったユーフラテス川流域では、治安保たれ耕地面積増大し流通税収改善した。 しかし、イラーク(下メソポタミアにおいては17世紀後半になると気候変動治水政策の失敗によりユーフラテス川流路大きく変化した流路急激な変化もたらした疫病政治問題経済問題は、相互に関連しながらさらに悪化しバグダード南西方面ユーフラテス川流域)の政治風土人々暮らし大きく変えたこのような変化一つ帰結として、この時代当地ではオスマン帝国権威低下し新たな政治勢力としてハザーイル氏族(バヌー・フザア(英語版)系の一大氏族連合)が台頭するようになった

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