イスラーム教徒による伝統的な見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 06:05 UTC 版)
「ヤズィード1世」の記事における「イスラーム教徒による伝統的な見解」の解説
ヤズィードは今日まで多くのイスラーム教徒によって非道な人物であると見なされており、統治者の地位は(その権利を奪うために)ヤズィードが殺害したフサインを含むアリーとその子孫たちに帰属すると考えるシーア派だけではなく、ヤズィードがイスラームの価値観からはかけ離れた存在であるとする多くのスンニ派にとっても同様に考えられている。ヤズィードはシーア派においては悪の象徴とされており、毎年アーシューラーの行列や受難劇で罵倒され、非道で暴虐的であると見なされた支配者はしばしばヤズィードと同一視されている。イラン革命以前にイランのシャーはルーホッラー・ホメイニーによって「今の時代のヤズィード」と呼ばれ、イラクのサッダーム・フセイン大統領もイラン・イラク戦争中にシーア派の聖地への巡礼を禁止したことに対してイラクのシーア派から同じように呼ばれた。スンニ派の中ではハナフィー学派はヤズィードへの非難を認めているものの、ハンバル学派とシャーフィイー学派の多くはこのような評価をヤズィードに押し付けるべきではなく、暴君一般を非難すべきであると主張している。しかし、ハンバル学派の学者であるイブン・アル=ジャウズィー(英語版)(1201年没)は、ヤズィードへの非難を正当化した。一方でガザーリー(1111年没)は、ヤズィードがイスラーム教徒であり、フサインの殺害における役割が立証されていないことを理由として、ヤズィードへの非難は禁止されると述べている。 ヤズィードはカリフの歴史の中で血縁関係に基づいて後継者に指名された最初の人物であり、このような世襲によるカリフの地位の継承はその後の慣習となった。このような事情から、イスラーム教徒の歴史的な伝承においてヤズィードの継承はカリフの役割を君主の性格へと変えた腐敗と見なされ、ヤズィード自身はカリフの地位にある間に三つの重大な犯罪の責任を負った暴君として描かれている。一つ目が虐殺とみなされたカルバラーの戦いでのフサインとその支持者たちの死、二つ目がヤズィードの軍隊がマディーナを略奪したハッラの戦いの余波、そして三つ目がヤズィードの軍司令官であるフサイン・ブン・ヌマイルによるものとされたメッカの包囲中に発生したカアバの焼失である。伝承では飲酒、踊り、狩り、そして犬や猿などのペットの飼育といった習慣が強調され、イスラーム共同体を率いるには不信心であり相応しくない存在として描写されている。現存する同時代のイスラーム教徒による史書では、ヤズィードを「その腹と陰部に関する点で罪深い人物」、「傲慢な酔っぱらい」、「神への反抗、神の宗教への信仰心の欠如、そして神の使徒に対する敵意に突き動かされている」と説明している。歴史家のバラーズリー(英語版)(892年没)は、カリフに通常用いられる「信徒たちの長」(ʾamīr al-muʾminīn)の称号とは対照的に、ヤズィードを「罪人たちの長」(ʾamīr al-fāsiqīn)と表現した。 このような評価の存在にもかかわらず、一部の歴史家は、初期のイスラーム教徒による情報源にはフサインの死に対するヤズィードの責任を免除し、イブン・ズィヤードに直接責任を負わせる傾向が存在すると主張している。歴史家のジェームズ・リンジーによれば、シリアの歴史家のイブン・アサーキル(英語版)(1176年没)は、ヤズィードに対する一般的な主張を受け入れつつもヤズィードの肯定的な資質を強調しようとした。例として、ヤズィードがハディース(ムハンマドに帰する格言と伝承)を伝える者であるとともに「預言者の時代との繋がりの故に」高潔な人物であり、支配者の立場に値すると強調した。
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