イスラーム時代以降の「シャー」および「シャーハンシャー」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 09:29 UTC 版)
「シャー」の記事における「イスラーム時代以降の「シャー」および「シャーハンシャー」」の解説
アラブ征服時代からのイスラーム世界の拡大によってサーサーン朝滅亡以後は「シャー」の称号は途絶するが、サーマーン朝によるペルシア語復興運動によってカラ・ハン朝やセルジューク朝など外縁のテュルク系諸勢力から人名として徐々に使用されるようになり、この頃から近世ペルシア語ではペルシア帝国の支配者に限らず広く「王」を意味する普通名詞となって、君主や聖者などの貴人の称号や人名の一部として用いられるようになった。 「シャーハンシャー」はアラビア語の歴史書などでは専らサーサーン朝ないしの古代のイラン系の君主たちにのみ使用されていた単語で、サーサーン朝の滅亡以降、久しく現役の君主の称号としては使用されていなかった。しかし、932年にブワイフ朝が政権を獲得すると、アッバース朝カリフに「アミール・アル=ウマラー(諸アミールのアミール)」の称号以外に古代以来の「シャーハンシャー」の称号を名乗る許可をも求めるようになった。現在確認できる限りではアドゥドゥッダウラ(在位949-983年)の治世からブワイフ朝の君主たちは貨幣の銘文などに「シャーハンシャー」の称号を用いていたことが分かっている。またこれに倣っての事だと思われるが、セルジューク朝のトゥグリル・ベクもスルターンの称号を授与された前後からやはり貨幣に「最大のスルターン」( سلطان المعظم Sulṭān al-Mu‘aẓẓam)という名乗りに加え、「最も栄光あるシャーハンシャー」( شاهنشاه الاجل Shāhanshāh al-Ajall)という称号を刻ませていたことも判明している。 16世紀初頭にイランを統一したサファヴィー朝が、それまでこの地方の君主が用いていたスルターンやハーンにかわってシャーの称号を採用し、イランの君主の称号として定着。その後のアフシャール朝、カージャール朝、パフラヴィー朝の諸王朝で用いられ、1979年のイラン・イスラム革命で帝政が倒されるまで続いた。イルハン朝が断絶して以降、イラン周辺での「ハーン」の称号は地方君主やアミール、都市有力者の人名に使われる程一般化してしまい称号としての地位の下落が著しく、王朝の君主たちはスルターンやパーディシャーなどに加え「陛下」「殿下」に相当する「ハズラト」( حضرت hazrat)に「高貴なる」「至高なる」など様々な形容詞を附随させてなどして王朝の君主としての称号の差別化を行っていた。 最後のシャーとなるモハンマド・レザー・パフラヴィーは、公式には「シャーたちのシャー」、すなわち王たちの王、皇帝を意味するシャーハンシャー(shāhanshāh)を自ら用い、皇后にはアラビア語のマリクの女性形であるマリカ(malika)の称号が使われた。(イスラーム革命以前では「パードシャー」で呼ばれていた例も多い)
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