ザイドの蜂起
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「ザイド・ブン・アリー」の記事における「ザイドの蜂起」の解説
詳細は「ザイドの蜂起(英語版)」を参照 ムフタールの乱鎮圧後のクーファではカイサーン派諸派がまだ活動を続けていたが、それらも含めた親アリー勢力の人々の間では、アリーの後継者として、ハサン家の男子を推す声が高まっていた。ザイドは、そのような状況下のクーファを訴訟のために訪れた。そして、クーファの民の一部の支持を受けて、ヒジュラ暦122年サファル月(西暦740年)に、蜂起した。しかしながら、その動きは事前にウマイヤ朝のイラク総督の察知するところになり、蜂起は数日のうちに鎮圧され、ザイドは捕らえられて処刑された。 タバリーによると、ウマイヤ朝のカリフ、ヒシャーム・ブン・アブドゥルマリクが治めていた時代のクーファにおいて、ザイドの遺体は掘り起こされて、首と胴体が別々に切り離された上、磔にされた。そして、息子のヤフヤーがザイドの遺志を継いだという。遺体の掘り起こしを命じたのはイラク総督ユースフ・ブン・ウマル・サカフィー(英語版)である。
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ザイドの蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 02:43 UTC 版)
詳細は「ザイド・ブン・アリー」および「ザイドの蜂起(英語版)」を参照 西暦680年のカルバラーの惨劇後、熱狂的な親アリー勢力の一人、ムフタール・アッ=サカフィーは、ハサンやフサインの異母弟であるムハンマド・ブン・アリー(イブン・ハナフィーヤ)を擁立して、親アリー勢力を軍営都市クーファに糾合し、マッカにおけるイブン・ズバイルの反乱のすぐ後に、シリアを根拠地にするウマイヤ家に対して反乱を起こした(685年)。ムフタールの軍は一時、バスラを除くイラク中南部をすべて押さえる勢いであったが、フサインの血の復讐といった当初の目的を達成すると力を失い、687年に平定された。ムフタールの支持者はカイサーン派と呼ばれ、預言者ムハンマドからアリーに受け継がれた宗教的カリスマが、その暗殺後、ハサン、フサイン、ムハンマド(イブン・ハナフィーヤ)へと受け継がれていったとした。しかしながら、その後を誰が受け継ぐかという問題をめぐって諸派に分裂した。 他方で、フサインの息子たちの中で唯一人、カルバラーの惨劇後も生き残ったアリー・ブン・フサイン(ザイヌル・アービディーン)は、上述のような(アラブ帝国の)第2次内乱期中、マディーナで隠遁生活を送っていた。ザイヌル・アービディーンの息子たちの中には、ムハンマド(バーキルル・イルム)とザイドの2人がいた。バーキルが政治から距離を置き学究生活を送ったのに対し、ザイドは積極的な政治参加を志向した。 ムフタールの乱鎮圧後のクーファではカイサーン派諸派がまだ活動を続けていたが、それらも含めた親アリー勢力の人々の間では、アリーの後継者として、ハサン家の男子を推す声が高まっていた。ザイドは、そのような状況下のクーファを訴訟のために訪れた。そして、クーファの民の一部の支持を受けて、ヒジュラ暦122年サファル月(西暦740年)に、蜂起した(ザイドの蜂起(英語版))。しかしながら、その動きは事前にウマイヤ朝のイラク総督の察知するところになり、蜂起は数日のうちに鎮圧され、ザイドは捕らえられて処刑された。
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