エウフェミオスの反乱とムスリムによるシチリア征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:49 UTC 版)
「イスラーム期のシチリア」の記事における「エウフェミオスの反乱とムスリムによるシチリア征服」の解説
詳細は「ムスリムによるシチリア征服(英語版)」を参照 826年、シチリアのビザンツ艦隊司令官エウフェミオス(英語版)は修道女に自分と結婚するよう強要した。皇帝ミカエル2世はこの件の噂を聞き付け、将軍コンスタンティノスにこの結婚を解消させエウフェミオスの鼻を切断するように命じた。エウフェミオスは反乱を起こしコンスタンティノスを殺害してシラクサを占領した。しかし彼は順次敗北を重ね、北アフリカへ逃亡した。エウフェミオスはチュニジアを支配するアグラブ朝のアミール、ズィヤーダ・アッラーフ1世(英語版)に、将軍としての地位及び安全と引き換えにシチリアの支配権を差し出し、ムスリムの軍隊が派遣された。 ズィヤーダ・アッラーフ1世はシチリア島の征服に同意し、エウフェミオスに毎年の貢納と引き換えにこの島を与えることを約束した。そして70歳になるカーディーのアサド・ブン・アル=フラート(英語版)に征服が託された。アグラブ朝のムスリム軍団は、マツァーラ・デル・ヴァッロへの上陸後、歩兵10,000人、騎兵700騎、そしてエウフェミオスのものを加えて増強した船舶100隻を数えた。ビザンツ帝国軍に対する最初の戦いは827年7月15日にマツァーラ近郊で行われ、アグラブ朝が勝利した。 アサド・ブン・アル=フラートはその後、島の南岸を占領し、シラクサを包囲した。1年間の包囲(英語版)と反逆の企ての後、彼の軍隊はドゥーチェ、Giustiniano Participazio率いるヴェネツィア艦隊に支援されてパレルモから派遣されてきた大軍を撃破することに成功した。しかし、ムスリムの軍隊内でペストが蔓延して多数の死者を出し、アサド・ブン・アル=フラート自身も死亡すると、ムスリムたちはミネーオ城へ後退した。アサドの後にはムハンマド(在職:828年-829年)、次いでズハイル(在職829年-830年)がムスリムの指揮を引き継ぎ、彼らは再び攻勢に出たが、カストロジョヴァンニ(現在のエンナ、この時エウフェミオスが死亡した)の征服に失敗し、マツァーラへ後退した。 830年、彼らは30,000人のイフリーキヤ人とアンダルス人の軍勢という強力な援軍を得た。アンダルスのムスリムの軍勢は同年の7月から8月にかけてビザンツ帝国の司令官テオドトスを撃破した。だが、再びペストがムスリムを襲い、マツァーラへの退却、さらにはイフリーキヤへの撤退を強いた。イフリーキヤ人部隊はパレルモ包囲に派遣され、831年9月に、1年にわたる包囲の後に同市を占領することに成功した。パレルモはシチリアにおけるムスリムの首都となり、アル=マディーナ(The City)と改名された。 この征服の状況はシーソーのように一進一退を繰り返した。強力な抵抗と多くの内部紛争によって、ムスリムによるビザンツ領シチリアの征服には1世紀以上の時間が費やされた。シラクサは長期にわたってビザンツ領に踏み止まったが、878年に陥落(英語版)し、タオルミーナは902年に陥落した。そしてビザンツ帝国の最後の拠点は965年に占領された。
※この「エウフェミオスの反乱とムスリムによるシチリア征服」の解説は、「イスラーム期のシチリア」の解説の一部です。
「エウフェミオスの反乱とムスリムによるシチリア征服」を含む「イスラーム期のシチリア」の記事については、「イスラーム期のシチリア」の概要を参照ください。
- エウフェミオスの反乱とムスリムによるシチリア征服のページへのリンク