イスラーム法についての認識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 07:10 UTC 版)
「イブン・タイミーヤ」の記事における「イスラーム法についての認識」の解説
イブン・タイミーヤは、イスラームの信仰とシャリーア(イスラーム法)を第一とする原理主義的な思想家と見なされることが多い。イブン・タイミーヤは第一にクルアーンを厳密に文字どおりに解釈するべきだと考え、次にハディース、教友(サハーバ)の合意の妥当性を認めていた。法学・神学上の問題においては、厳しい条件を設けた上でのイジュティハード(知識と思考によって下した独自の判断)とキヤース(演繹的類推)の行使を勧め、マスラハ(共同体全体の利益)を勘案する必要性を説いた。シャリーアで命じられているとは断定できず、また禁止されてもいない行為について、イジュティハードを行使し、有益な結果をもたらす場合に許可を与えることができるとしていた。また、イジュティハードの行使者たちが統一された集団を形成するとは考えていなかった。伝統的な信仰の保持、人間の持つ理性、精神の調和こそがイブン・タイミーヤの抱いた理想だと推測されている。 イブン・タイミーヤは神と人間の絶対的不同を唱え、人間はイバーダ(神への奉仕)を行うことを最高の責務であると唱えた。シーア派やギリシア哲学の影響を受けたイスラーム神学と神秘主義(スーフィズム)に反対し、その影響を排除することを唱えた。そのために、彼はシャリーアの絶対性を唱え、クルアーン(コーラン)とスンナこそが信仰の基本であり、このふたつをシャリーアの法源の第一とすべきであるとし、また、シャリーアの厳守と完全な実施がイスラム国家の指導者の義務であると主張した。シャリーアの機能には社会の安定が不可欠だと考え、マムルーク朝などの軍事政権には社会的安定を存立の条件として求めていた。反対にイスラム国家であってもこの義務を果たさない国家及び指導者は出自や資質を満たしても正当な指導者とは認められず、彼らに対するイスラム教徒の戦いにはジハードが成立するとするファトワーを出してこれを正当化した。 当時モンゴル帝国のイランにおける政権であるイルハン朝は、第7代君主ガザン以降「イスラームの帝王」(Pādshāh-i Islām)を名乗りイクター制度の施行やサイイドをはじめシーア派保護等、従来のモンゴル王権を維持しつつ新たにイスラーム政権としての権威も主張し始めていた。イブン・タイミーヤはマムルーク朝の脅威であったイルハン朝との闘争はジハードであると主張したが、本来、これらはイルハン朝の正当性を否定して、スンニ派のマムルーク朝を擁護するためのものであった。後世においてはサラフィー主義反体制武闘闘争派が西欧法を受容したイスラーム国家を否定して革命を起こすための名分に用いられ、彼らは既存のイスラーム国家を「現代のタタール(モンゴル)」と呼んでいる。
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