イスラーム法学の歴史におけるマーリク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/15 09:02 UTC 版)
「マーリク・ブン・アナス」の記事における「イスラーム法学の歴史におけるマーリク」の解説
詳細は「マーリク法学派」を参照 イスラーム法学(≒フィクフ)の発展の歴史における、マーリクの歴史的位相について紹介する。時間軸で捉えると、マーリクが『ムワッター』で述べていることは、ときどきの状況に応じて理由付けが行われたものであり、法源のすべてをクルアーンかハディースに求めるという後代のイスラーム法学の類型には当てはまらない。『ムワッター』は、イスラームの法的思想が「イスラーム法学」になる前の段階を示している。伝承の追究が厳格さを増し、ある側面では硬直化して「ハディース学」が成立するのはマーリクより後の時代のことである。 空間軸で捉えると、マーリクが『ムワッター』で述べていることは、成立期のムスリムの共同体が遵守しようとしたマディーナの慣習法である。この慣習法は原始的なものではなく、交易を主たる生業としたコミュニティの高度な要請に応じて発展してきたものである。さらに、ひとつの町のみならずアラブ的慣習法の代表例でもある。 タバリー、サムアーニー、ナワウィーによると、マーリクは後世の人々に高い評価を受けているが、その理由はマーリクが神意の探究に勤しんだからではなく、彼がハディースの真正性を厳しく見極めたからであった。『ムワッター』では、法的判断について伝承されていることよりも、その当時のマディーナで間違いなく実践されている判断(アマル ˀamal)を提示することのほうが優先される。シャーフィイーはマディーナのウラマーのうち特にマーリクだけを高く評価しているが、これは偽ハディースを鵜呑みにしない、マーリクの厳格な態度による。 『ムワッター』でマーリクの個人的見解(ラアイ)が示されるのは、伝承(ハディース)も合意(イジュマー)も存在しない事案についてだけである。しかしこの、ある意味「寛大」な面が後の世代の法学者には残念がられる結果になった。イブン・ハッリカーンは、亡くなる直前のマーリクが過去にラアイを下したことを悔悟したとする反ラアイ派による伝承を伝えている。
※この「イスラーム法学の歴史におけるマーリク」の解説は、「マーリク・ブン・アナス」の解説の一部です。
「イスラーム法学の歴史におけるマーリク」を含む「マーリク・ブン・アナス」の記事については、「マーリク・ブン・アナス」の概要を参照ください。
- イスラーム法学の歴史におけるマーリクのページへのリンク