イスラーム王朝の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 03:03 UTC 版)
654年頃にバスラ総督アブドゥッラー・イブン=アーミル麾下のアフナフ・イブン=カイス率いるアラブ軍がホラーサーン征服のためトハーリスターン周辺に侵攻した。このときバルフはアフナフと和平条約を結んでイスラーム側に帰順した。ムアーウィヤがウマイヤ朝の初代カリフとして即位すると、カイス・ブン・アル=ハイサム・アッスラミーがホラーサーン総督として任命されたが、この時期にはバードギース・ヘラート・バルフといったホラーサーン東部の主要都市の多くがイスラーム政権側に離叛し、カイスは鎮定のためバルフをまず攻略してナウバハール寺院を破壊したと伝えられる。その後バルフの住民たちがカイスと再び和平条約を結びたいと願い出たため、これに応じて和約と安全保障の協定が結ばれた。バスラ総督のイブン=アーミルはカイスの方針を弱腰であるとして厳しく問責したが、ヘラート・バードギースなどもバルフに続いて和平条約と安全保障を再度締結した。こうしてイスラーム勢力によって征服され、続くウマイヤ朝・アッバース朝・サッファール朝の支配を受けると、トハーリスターンの名称は使われなくなった。
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