ムスリムによる初期の襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:49 UTC 版)
「イスラーム期のシチリア」の記事における「ムスリムによる初期の襲撃」の解説
詳細は「アラブ人とビザンツ帝国の戦争」を参照 シチリア島は紀元前に戦われたポエニ戦争以来、ローマ帝国の支配下にあった。その後、5世紀のいわゆるゲルマン人の大移動期にはヴァンダル王国、次いで東ゴート王国がシチリアの支配権を握った。 535年、帝国の失われた西方領土回復を試みた東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はシチリア島をローマ帝国(当時の東ローマ帝国は現在では一般にビザンツ帝国と呼ばれている)の下に取り戻した。だが、間もなくビザンツ帝国の地中海での影響力は衰微し、新たに勃興したムスリム勢力が地中海のアフリカ沿岸を攻撃した。その過程で、シチリア島は正統カリフ(ハリーファ)ウスマーン治下の652年にムスリムの侵攻を受けた。この最初の侵攻は短期間であり、ムスリムはすぐに島を去った。7世紀の終わりまでに、ムスリム王朝のウマイヤ朝が北アフリカを完全に征服(英語版)し、ムスリムはカルタゴ市近郊に拠点となる港を得た。700年頃、パンテッレリーア島がムスリムに占領された。当時、シチリア侵攻への試みを妨げていたのはムスリム内部の不和のみであった。ムスリムはビザンツ帝国との間に貿易協定を結び、ムスリム商人がシチリアの港で商品取引を行うことが認められた。 最初の、本当の意味での征服遠征は740年に開始された。この年、かつて728年にもシチリア攻撃に参加したことのあったムスリムの王子ハビーブ(Habib)はシラクサ市を占領することに成功した。島全体の征服が計画されたが、チュニジアにおけるベルベル人の反乱(英語版)のために退却を余儀なくされた。2度目の攻撃は752年に、シラクサの再占領のみを目指して行われた。
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