ムスリムとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 06:01 UTC 版)
「アデマール・ド・モンテイユ」の記事における「ムスリムとの戦い」の解説
プロヴァンス諸侯の軍は、南イタリアのノルマン人諸侯の軍や北フランス諸侯の軍とともにボスポラス海峡を渡り、ニカイア攻囲戦を経て小アジアを横断した。6月30日、ドリュラエウムで、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世らの軍勢がノルマン人諸侯軍を包囲したが、アデマールは軍勢を率いて救援に駆けつけ、テュルク諸侯軍を撃破するという重要な活躍を行っている(ドリュラエウムの戦い)。 さらに1097年10月20日から1098年6月まで8か月にわたり続いたアンティオキア攻囲戦において、飢餓や疾病で苦しみ、地震やオーロラ出現におびえ、長引く戦いに士気が落ちる十字軍兵士に対し、アデマールは断食をおこなったり祭日の儀式を執り行うなど士気の維持に努めた。また諸侯による軍議も、主にアデマールのいる幕舎で行われた。アンティオキアの陥落後、十字軍は応援に駆け付けたモースルの領主ケルボガ(カルブーカ)の軍勢に逆に包囲されてしまったが、アデマールは街の通りを周る行進を組織し、家々の門を閉ざし、パニックを起こし始めた十字軍兵士が街の略奪を始めるのを防いだ。 包囲されている間、十字軍に加わっていた修道士ペトルス・バルトロメオという人物が、夢にイエス・キリストが現れその教えにしたがい地中から聖槍を発見したと言い出して兵士たちの間に熱狂的な反応を引き起こしたことに対し、アデマールは聖槍のような聖遺物はすでにコンスタンティノープルに納められているのでこんな場所で見つかるなどとは笑止千万、として非常に懐疑的に見ていたが、士気の向上につながるのならばと熱狂に水を差さないでおいた。 1098年6月28日に十字軍は聖槍を先頭に城外に出撃し、アデマールも軍勢を率いて城外のケルボガらの宿営へ突撃した。ケルボガ軍による包囲を打ち破った後、アデマールは、今後のアンティオキアの所有権をめぐる見解の相違や十字軍に参加する諸侯同士の主導権争い、特にタラント公ボエモンとレーモン・ド・サン=ジルとのいさかいを治めるために会議を開いたが対立は鎮まらなかった。しかしアンティオキア攻囲戦が終わって間もない1098年8月1日、アデマールはおそらくチフスにかかり病没してしまう。
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