ムスリムによる征服までの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/09 14:19 UTC 版)
「ビザンツ帝国領クレタ」の記事における「ムスリムによる征服までの時代」の解説
ローマの支配の下、クレタは帝国のクレタ・キュレナイカ属州の一部に組み込まれていた。ディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)の下でクレタ島はキュレナイカから分離されて単独の属州となり、コンスタンティヌス1世(大帝、在位:306年-337年)はこれをイリリクム道(英語版)のモエシア主教区(英語版)(後にマケドニア主教区(英語版))の下に置いた。この枠組みは古代末期まで継続した。由緒正しい島のコイノン(英語版)のようないくつかの行政機関は4世紀の終わりまで持続していた。 4世紀からムスリムによる820年代の征服までの期間のクレタに言及する同時代史料は僅かしかない。この時代の間、クレタ島はグレコ・ローマン世界の片隅にある非常に静謐な地域であった。すぐ隣にあるロードス島やコス島とは対照的にクレタ島の主教たちは325年の第1ニカイア公会議にすら出席していない。457年のヴァンダル族による攻撃と、365年7月21日の地震、および415年、448年、531年の地震によって多くの都市が破壊されたが、これらを例外としてクレタ島は平和と繁栄を維持したことが、当時から今なおこの島に残る数多くの大規模かつ良質なモニュメントによって証明される。6世紀に成立した『シュネクデモス』では、クレタ島はコンスラリス(英語版)によって統治され、首都はゴルテュン(英語版)に置かれており、22もの都市があったと特筆されている。この時代の人口は250,000人に上ったと推定され、主要都市中心部に居住していた少数のユダヤ人を除いてほとんどがキリスト教徒であった。 この平和は7世紀に破られた。クレタ島は623年にスラヴ人による初めての襲撃を受け、続いて654年と670年代にはイスラームの征服活動(英語版)の波の中でアラブ人に襲撃された。8世紀最初の10年間の間に再び、特にカリフ、アル=ワリード1世(在位:705年-715年)の下でアラブ人による襲撃があった。その後、クレタ島はコンスタンティノープルから任命されるアルコン層の統治の下で比較的平穏な時代を過ごした。732年頃、皇帝たるイサウリア人レオン3世はこの島をローマ教皇の管轄からコンスタンティノープル総主教庁の管轄へと移した。767年にはクレタ島のストラテゴスの存在が証明されており、またクレタ島のトゥルマルケス(英語版)(tourmarches、地区長官)の印影が発見されている。これらの証拠から、8世紀(恐らくは730年代初頭)にクレタ島のテマが構成されたという説が提案されている。しかし、大半の学者はこれらの証拠は十分に検証されておらず当時のクレタ島にテマのが存在したとは考えにくいとしている。
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