イスラームの征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
私は、描写を控え目にしたいが、つぎのような一都市を獲得した。私がそこで、四千の邸宅、四千の浴場、四万人の人頭税を払うユダヤ教徒、使用料を得られる四百ヶ所の遊興所を得たと述べるだけで、十分でしょう。 -アムル・ブン・アル=アースのアレクサンドリア征服報告 ビザンツ帝国とサーサーン朝が共に戦争で疲弊する一方、アラビア半島ではメッカ(マッカ)のクライシュ族に生まれたムハンマドが610年頃、神(アッラー)の啓示を受け、次第に神の使徒としての自覚を深めたとされる。彼に同調する人々はアラブ人の中に次第に増えていき、後にイスラームと呼ばれる宗教が形成されていった。メッカで迫害を受けたムハンマドは622年7月16日にメディナ(マディーナ)へと遷った。これはヒジュラ(聖遷)と呼ばれ、この日はイスラーム暦の起点となっている。ムハンマドが作ったアラブ人たちのイスラーム共同体(ウンマ)はメディナの支配権を握るとともに630年にはメッカを征服し、632年にムハンマドが死んだ後はアブー・バクル(在位:632年-634年)、次いでウマル・ブン・ハッターブ(在位:634年-644年)がカリフ(ハリーファ、代行者の意)としてウンマの指導を引き継いでアラビア半島全域に支配を確立した。イスラーム共同体は633年夏にはサーサーン朝の中枢部(イラク、アル=イラーク)に侵入を開始し、637年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝の軍勢を打ち破りこれを崩壊させた。彼らは同時にビザンツ帝国領であったシリアにも襲い掛かり、641年のヤルムークの戦いの勝利によってビザンツ帝国からシリアを完全に奪い取った。 シリア各地を転戦していたイスラームの司令官アムル・ブン・アル=アースは慎重意見を圧して639年に独断でエジプトへの侵攻を開始した。シリアからエジプトへの入り口にあたるペルシウム(アル=ファラマー)の城塞はサーサーン朝との戦争の後修繕されておらず、1か月で陥落し、641年4月には現在のカイロ南郊にあったバビロンがムスリムの攻撃を受けた。アレクサンドリア主教キュロス(英語版)とビザンツ軍司令官テオドロスが救援に向かったが敗れ、キュロスはバビロン市内に封じ込まれテオドロスはアレクサンドリアへ後退した。ビザンツ帝国における宗教対立はサーサーン朝との戦いの時と同じようにムスリムとの戦いにも影を落としていた。エジプトの反ビザンツ派(反カルケドン派、コプト)の主教ベニヤミン1世(英語版)はムスリムの軍隊を受け入れ、キリスト教徒たちは抵抗しないように事前に指示されていたと言われる。 キュロスはアラブ人たちへの貢納の支払いに同意し、ムスリム側と会談を行って、提示された和平条件を皇帝ヘラクレイオスに伝えるべくアレクサンドリアに赴いたが、反逆罪に問われ追放された。まもなくバビロンは陥落し、周辺都市も制圧されて凄惨な殺戮と略奪が繰り広げられた。同年にヘラクレイオスが死去し新たにコンスタンス2世(在位:641年-668年)が即位するとキュロスが復帰したが、彼はエジプトの維持を諦めており、定額の貢納、ビザンツ軍の安全なエジプトからの撤退、エジプトの奪回を試みないことなどを約してムスリムと講和を結んだ。同年中にアレクサンドリア(アル=イスカンダリーヤ)は引き渡され、ビザンツ帝国はエジプトを喪失した。 アムル・ブン・アル=アースがバビロン近郊に構築した野営陣地がエジプトの新たな行政的中心として整備された。これはフスタート(古カイロ、ミスル・アル=アティーカ)と呼ばれ、その後300年余りにわたってエジプトの首都となった。フスタートという名称は恐らく「野営地」を意味するギリシア語がアラビア語に転訛したものと考えられ、アラブ人たちの初期の入植地の性質を良く示している。ムスリムはビザンツ帝国の行政機構を踏襲してエジプトから利益を得ようとしたが、アムルが十分な成果を上げていないと見たカリフ・ウマルはアムルを解任し、さらに644年に新たなカリフとなったウスマーン・ブン・アッファーン(在位644年-656年)はアムルをエジプトから召喚して乳兄弟のアブドゥッラーをエジプトの統括者に任命した。 645年、ビザンツ皇帝コンスタンス2世はムスリムに反抗するアレクサンドリア市民の請願を受ける形で海路アレクサンドリアへ派兵し、エジプトの奪還を試みた。アルメニア人マヌエルが指揮する300隻の艦隊はアレクサンドリアを奪還したが、ムスリム側はこの事態にアムル・ブン・アル=アースを直ちに復帰させて対応した。両軍は646年にニキウ(現在のミヌーフィーヤ県にあった都市)近郊で遭遇戦を戦い、ムスリム側が圧勝した(ニキウの戦い(英語版))。これによってビザンツ帝国のエジプト支配は完全に終了し、エジプトは現在に至るまでムスリムを中核とする政権の統治下に置かれている。
※この「イスラームの征服」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「イスラームの征服」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。
- イスラームの征服のページへのリンク