ドナトゥス派問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)
「コンスタンティヌス1世」の記事における「ドナトゥス派問題」の解説
コンスタンティヌス1世がキリスト教を受け入れた時、既にキリスト教会内部では分裂が生じていた。真っ先に問題になったのは北アフリカにおける分裂であった。ディオクレティアヌスによる大迫害の時代、皇帝からの圧力に対してキリスト教の司教たちがとった対応は様々であった。多くは皇帝に対して表立って反抗するような真似はしなかったが、面従腹背の姿勢で応ずるものもおり、またこうした逃げ腰の姿勢を批判する厳格主義者たちがいた。こうして北アフリカでは信念を曲げる行為を批判する厳格主義者たちと、不必要に殉教を求める行為を批判する穏健派は互いに批判を強め、厳格主義者たちは穏健派(主流派)のカルタゴ司教カエリキアヌスを承認することを拒否し、独自にマヨリヌスをカルタゴ司教に選出し、それぞれに支持者を集めて二つの陣営へと分裂していた。 コンスタンティヌス1世はこの問題に介入した。ローマ司教(教皇)ミルティアデス(またはメルキアデス)に対して自分が教会の分裂を欲しておらず双方当事者からの聞き取りを行って裁判を実施し解決を図るよう指示を出し、その結論を出す役にガリアから招集した司教を任命した。ミルティアデスは教会の問題が司教たちによる会議(公会議)によって決定されるべきという立場を取り、コンスタンティヌス1世が任命した司教に加えてイタリアから15人の司教を集めた。以後コンスタンティヌス1世はそれを受け入れ、教会の問題は公会議によって決定されることが慣行になった。しかし最終的に公会議を招集する権利やその結論に対して上位者として裁定を行う権利を放棄することもなかった。 並立する2人のカルタゴ司教カエリキアヌスとマヨリヌスのうち、実際に公会議が始まる前にマヨリヌスが死亡したため、その支持者たちはドナトゥスを新たな司教に選出した。彼の名にちなんで北アフリカの反主流派はドナトゥス派(ドナティスト)と呼ばれる。313年10月2日にローマで行われた会議ではカエリキアヌス派に有利な決定がなされ、ドナトゥス派の主張は退けられた。しかしドナトゥス派はこの決定を受け入れず、その強硬な反対の前に翌314年8月1日にアレラーテー(アルル)でより大規模な公会議(アルル公会議)が開催された。当時、コンスタンティヌス1世がドナトゥス派の姿勢に不快感を持っていたことを示す書簡の文章が現存しており、またその中で彼はこの「兄弟同士」の争いが異教徒の間でキリスト教の評判を落とすかもしれないことを心配している。さらにこの会議の機会をとらえて、復活祭(イースター)の日付の統一や司教の叙任、任地、信徒の破門に関する規定なども行われた。 結局アルルの会議でもドナトゥス派の主張は退けられ、ローマの会議の結論が正しいとされた。ドナトゥス派はなおもこれを受け入れず、コンスタンティヌス1世への直訴を行った。コンスタンティヌス1世はさらなる説得を試みたが、ドナトゥス派内部で更に分裂が生じ見苦しい争いが始まると、最終的に力づくでドナトゥス派を抑えつけることを決定し、ドナトゥス派の教会は没収され指導者達は追放された。これはキリスト教的政府による最初のキリスト教徒分派への迫害となった。しかしキリスト教徒を弾圧することへの躊躇からコンスタンティヌス1世の姿勢は徹底を欠き、321年には弾圧を中止して彼らの処遇は「神の裁きに任せる」とした。結局コンスタンティヌス1世は分裂を解決することに失敗し、ドナトゥス派はローマ教会の支持を得てカトリコス(Catholicos、カトリック)を称したカルタゴ教会に対抗する北アフリカの土着的な勢力として、イスラームの征服によって北アフリカのキリスト教が消滅するまで存続した。 しかし同時にドナトゥス派を巡る一連の経過によって、コンスタンティヌス1世は自らの主催する公会議によって、また自らの決裁によって教会内の問題に皇帝として判決を下す権利、そして司教の任免、教会の接収などを実施する権利を、自然に教会に認めさせ、その主人たる地位を確立することに成功してもいた。
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