ドナトゥス派とアフリカ教会の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「ドナトゥス派とアフリカ教会の分裂」の解説
「ドナトゥス派」を参照 312年にカエキリアヌス(チェチリアヌス)がカルタゴ司教となったが、彼を叙任した司教はディオクレティアヌス帝の大迫害のときに聖書を提出して裏切りを行ったとして、ヌミディアの司教団が反対し,この叙任を無効として、313年のカルタゴ教会会議でマヨリヌス(マイオリヌス)対抗教皇を立てた。この運動はドナトゥス司教の見解が採択されたため、ドナトゥス主義またドナトゥス派と呼ばれる。マヨリヌス没後はドナトゥス対抗教皇を立てた。 コンスタンティヌス1世が、大迫害で破壊された教会を再建しようと献金をカエキリアヌス司教に知らせると、ドナトゥス派がこれに反発し、皇帝に決裁を求めた。コンスタンティヌス1世は仲裁をローマ司教ミルティアデスに依頼し、アルル司教、オータン司教、ケルン司教らとのローマ教会会議を開催した。しかし、この会議ではローマ司教ミルティアデスは、ドナトゥス派の訴えを棄却して、カエキリアヌス司教叙階を有効性があると決裁した。ドナトゥス派はこれに反発して、皇帝に控訴すると、皇帝はローマ教会会議の決裁を廃止し、314年にアルルで新たに会議を開かせた。これは皇帝によって開催された最初の教会会議であった。しかしアルル会議でもローマ会議決裁を是認したため、ドナトゥス派は過激化し、アフリカ教会は分裂した。ドナトゥス派とアフリカ教会の分裂は100年後も続き、ヒッポ司教アウグスティヌスによる和解も成功しなかった。 棄教聖職者の執行するサクラメント、洗礼は無効とするドナトゥス派は、ウァレリアヌス皇帝の迫害によって殉教したカルタゴ司教キプリアヌスの権威をかかげて、属州アフリカ、ヌミディア(チュニジア)で広まっていった。
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