イスラームの征服: 632年–750年
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詳細は「ヒスパニアのウマイヤ朝の征服」および「南イタリアのイスラーム史」を参照 7世紀からビザンティン史はイスラームとイスラム帝国の興隆に大いに影響された。ムスリムのアラブ人は、歴史上初めてシリア属州とメソポタミア属州[要リンク修正]に入った初代正統カリフのアブー=バクルのローマ領を侵攻した。第二代カリフウマル・イブン・ハッターブの下でパレスティナ属州(英語版)やアエギュプトゥス、小アジアやアフリカ属州の一部と同様にムスリムはシリアとメソポタミアを決定的に征服した。この傾向はウマル・イブン・ハッターブの後継者やウマイヤ朝の下で続き、残りの地中海沿岸の北アフリカや大半の西ゴート王国を支配した。続く数百年以上にわたりムスリム軍はキプロス(英語版)やマルタ、クレタ、シチリアと南イタリアの一部(英語版)などのヨーロッパ領を更に手中に収めることが出来た。 ムスリムのヒスパニア支配は、ムーア人(殆どはアラブ人を伴ったベルベル人)がベルベル人の指導者ターリク・イブン=ズィヤードの下で711年にイベリア半島のキリスト教系西ゴート王国を侵略した際に始まった。4月30日にジブラルタルに上陸し、北に向かった。ターリクの軍は、翌年上官ムサ・イブン=ヌサイル(英語版)の軍に統合された。8年に及ぶ戦闘でイベリア半島の大半がムスリムの支配下に置かれることになった(北西部の僅かな地域(アストゥリアス州)とピレネー山脈のバスク地方の多くは残った)。アラブ名アンダルスとしてこの地域は拡大するウマイヤ朝の一部となった。 第二次コンスタンティノープル包囲(717年)が失敗に終わると、ウマイヤ朝は弱体化し、勢力は弱まった。占領するイベリア半島で成功すると、後継者はピレネー山脈を越えて北西に向かったが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の指導者カール・マルテルに敗れた。ウマイヤ朝は750年にアッバース朝に取って代わられ、ウマイヤ朝の殆どの人は、虐殺された。 生き残ったウマイヤの王子アブド・アッラフマーン1世は、スペインに逃げ、後ウマイヤ朝として新しいウマイヤ朝を建国した(756年)。カール・マルテルの息子ピピン3世は、ナルボンヌを取り戻し、孫のカール大帝は、785年にジローナを、801年にバルセロナを再占領して、ピレネー山脈を越えて今日カタルーニャ州となっている地域にスペイン辺境領を創設した。スペインのウマイヤ朝は、929年にカリフを自称した。
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