サーサーン朝との戦争(527年~532年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
「ユスティニアヌス1世」の記事における「サーサーン朝との戦争(527年~532年)」の解説
ユスティニアヌス1世は叔父からサーサーン朝ペルシャとの戦争を引き継いでいた 。530年、ペルシャ軍はダラの戦いで撃破されたが、その翌年には今度はベリサリウス率いるローマ軍がカリニクムの戦いで敗れている。531年9月にペルシャ王カワード1世が崩御すると、ユスティニアヌスは後継者のホスロー1世に金11,000ポンドを支払って「永久平和条約」を締結した(532年)。 東方国境の安全を確保するとユスティニアヌスは西方に目を向けた。かつて西ローマ帝国が存在したこの領域にはアリウス派のゲルマン諸国家が成立していた。
※この「サーサーン朝との戦争(527年~532年)」の解説は、「ユスティニアヌス1世」の解説の一部です。
「サーサーン朝との戦争(527年~532年)」を含む「ユスティニアヌス1世」の記事については、「ユスティニアヌス1世」の概要を参照ください。
サーサーン朝との戦争(540年~562年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
「ユスティニアヌス1世」の記事における「サーサーン朝との戦争(540年~562年)」の解説
ベリサリウスはペルシャとの戦争の再燃により呼び戻されていた。530年代のアルメニアにおける反乱に続き、おそらくは東ゴートの使節からの懇願に刺激させられたホスロー1世は「永久平和条約」を破棄して、540年春に東ローマ領へ侵攻した。ホスロー1世はまずベロエアとアンティオキア(市内の守備隊6000人の退去を許している)を略奪して 、ダラを包囲した。その後、小国だが戦略的な要地にある黒海の衛星国ラジカへと、道中の諸都市から貢納金を取り立てながら、攻撃に向かった。彼はユスティニアヌスへ金5000ポンドに加えて、毎年金500ポンドの貢納を強要した。 ベリサリウスは541年に東方へ到着し、いくつかの戦勝を収めたが、542年にコンスタンティノポリスへ再び召還されている。この撤退の理由は不明だが、おそらくは将軍の背信行為の噂が宮廷に届いたためである。 疫病の発生により543年中の戦争は小康状態になった。翌年、ホスロー1世は東ローマ軍3万人を撃破したが、主要都市エデッサの包囲には失敗した。両軍とも優勢を勝ちえず、545年に東ローマとペルシャの南部国境地帯で和平が締結された。この後も北部でのラジカ戦争は数年間続いていたが、557年に和平が結ばれ、続いて562年に以後50年間続く和平が締結された。講和条件により、ローマが毎年金400から500ポンドを支払う見返りにペルシャはラジカを放棄することになった。
※この「サーサーン朝との戦争(540年~562年)」の解説は、「ユスティニアヌス1世」の解説の一部です。
「サーサーン朝との戦争(540年~562年)」を含む「ユスティニアヌス1世」の記事については、「ユスティニアヌス1世」の概要を参照ください。
- サーサーン朝との戦争のページへのリンク