ペルシャとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:53 UTC 版)
外交では先代から続いていたイラン・サファヴィー朝との戦争を継続した。1730年にナーディル・シャーの反撃により先代の時に獲得した領土を失った。しかしサファヴィー側では東でアフガン人の反乱が起きていたためナーディルは東に向かった。タフマースブ2世は、その間にエレヴァンを奪還すべく自ら遠征した。しかしオスマン側はこれを撃退。マフムト1世は1732年にサファヴィー朝とアフメト・パシャ条約を締結しコーカサスでの国境線をアラズ川とした。しかしナーディルはこれに反発してタフマースブ2世を追放し、戦争を続行、バグダードを奪われた。マフムト1世はこれを奪還すべくトパル・オスマン・パシャを派遣しバグダードを奪還したがトパル・パシャは程なくしてナーディルに打ち取られた。その後ナーディルによって、1735年までにガンジャやイェグフヴァルドを奪われた。同年コンスタンティノープル条約でイランの南コーカサス領有を認めた。 その後はしばらく平和が訪れるが、1743年にナーディルが再びイラクに侵攻してきたがそれを撃退し撤退させた。1744年に今度はカルスを包囲され、翌年のカルスの戦いでオスマン側は壊滅した。当初はナーディルはユスキュダルまで領土を広げるつもりだったが、1746年にケルデン条約で現状維持を条件に和平条約が締結されバグダードを死守することに成功した。(アフシャール戦役)。この時ケルデン条約で定められた国境線は現在のトルコとイランの国境のもととなっている。
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