ラヴェンナ占領(539年3月 - 540年5月)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)
「ゴート戦争」の記事における「ラヴェンナ占領(539年3月 - 540年5月)」の解説
この大惨事の結果、ナルセスは召還され、ベリサリウスのイタリアにおける最高司令官としての権限が確認された。同じ頃、ウィティギスはペルシャ宮廷に使者を送り、ホスロー1世に対して東ローマとの戦争を再開するよう説得させていた。説得が成功すればユスティニアヌス帝はベリサリウスを含む軍の主力を東方に集中させねばならなくなり、東ゴート族は回復の機会を得ることができる。実際に両国の戦争は再開したが、ウィティギスにとっては遅すぎた。 一方、ベリサリウスはラヴェンナを攻略して、この戦争を終わらせると決意した。これを成し遂げる前に、彼はアウクシウムとファエスラエ(Faesulae:現在のフィエーゾレ)の2つの東ゴート軍拠点を攻略せねばならなかった。マルティヌスとヨハネスがヴライアス率いる東ゴート軍を牽制すべくポー川を渡河する一方で、ユスティノスがファエスラエを、そしてベリサリウスはアウクシウムを包囲する。 この包囲戦の最中にテウデベルト (en) 率いるフランク族の大軍がアルプスを越えて侵攻し、東ゴート軍と東ローマ軍の両方に不意打ちをかけて来た。援軍が来たと思い込んでいた東ゴート軍はたちまち総崩れになる。同様に驚愕した東ローマ軍は交戦したが撃破され、南方のトスカーナへと退却した。戦争の行方を変えたこのフランク軍の侵攻だが、赤痢が蔓延して多数の死者を出し、撤退を余儀なくされた。ベリサリウスは両都市の包囲に専念し、539年10月または11月に飢餓に苦しんでいた両都市は降伏した。 これらの成功によって後顧の憂いがなくなり、ダルマチアからの増援も得たベリサリウスはラヴェンナへと進軍する。別働隊がポー川の北方へ送られ、帝国艦隊がアドリア海を哨戒して町への補給を断った。包囲された東ゴート王国の首都では、ウィティギスとの同盟を求めるフランク族の使者との交渉が持たれていたが、前年夏の出来事もあり、フランク族からの申し出には信がおけなかった。程なくしてコンスタンティノープルからの使者が訪れ、ユスティニアヌス帝からの非常に寛大な講和を申し出て来た。ペルシャとの戦争の為に東ゴートとの和平を切望していた皇帝は、ポー川の南を帝国領、北を東ゴート領とする分割案を提示した。ウィティギスはこの和平案を受け入れようとしたが、ベリサリウスは、このような和平は自分の功績に対する裏切りであると見なし、将軍たちの反対にもかかわらず、署名を拒否してしまう。 ベリサリウスの意思を誤解したウィティギスは彼に対して「西方の王」(basileus)の座を提供した。ベリサリウスにはそのような野心はなかったが、状況を利用すべく偽りの承諾をした。540年5月、ベリサリウス率いる東ローマ軍がラヴェンナに無血入城した。町を占領したベリサリウスはユスティニアヌス帝の統治下に入ったこと、そして東ゴート王国の消滅を宣言した。 ウィティギスの身柄は拘束され、王室の財宝もコンスタンティノープルへ送られたが、町は略奪されることはなく、東ゴート族の財産も保証された。ユスティニアヌス帝からの召喚命令により、ベリサリウスはウィティギスを伴ってコンスタンティノープルへ帰還した。ウィティギスにはパトリキ(貴族)の称号が与えられ、安楽な引退生活が許された一方で、捕虜となった東ゴート兵たちは対ペルシャ戦の増援として東方に送られた。 ラヴェンナの降伏により、ポー川北方の諸都市も帰順したが、ヴライアスの本拠であるティチヌム(Ticinum)やイルディバルドが守るヴェローナは依然として東ゴート族の勢力下にあった。
※この「ラヴェンナ占領(539年3月 - 540年5月)」の解説は、「ゴート戦争」の解説の一部です。
「ラヴェンナ占領(539年3月 - 540年5月)」を含む「ゴート戦争」の記事については、「ゴート戦争」の概要を参照ください。
- ラヴェンナ占領のページへのリンク