ラヴォアジエ後の原子論をめぐる論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/24 00:25 UTC 版)
「化学の歴史」の記事における「ラヴォアジエ後の原子論をめぐる論争」の解説
19世紀を通じて化学の世界は、ジョン・ドルトンが提唱する原子説の支持者と、これに反対するヴィルヘルム・オストヴァルトやエルンスト・マッハ らに二分されていた。原子説派ではアメデオ・アヴォガドロやルートヴィッヒ・ボルツマンがガスの振舞をうまく説明したものの、この論争の決着は20世紀はじめにブラウン運動を原子論的に説明したアインシュタインの説をジャン・ペランが実験で検証するのを待たねばならなかった。 論争が決着するまで長い時間を要したが、この間すでに多くのものが原子論の概念を化学に応用していた。20世紀になるまで十分発達していなかった原子の構造に関する予測となるスヴァンテ・アレニウスのイオン説などはこの好例である。マイケル・ファラデーもこの分野の先駆者で、彼の化学における貢献は電気化学の分野だったが、そのなかで金属の電気分解または電着 (electrodeposition) の過程における電気量は元素の量および、特定の比をもつ元素同士の固定量と密接に関係していることを明らかにした。これらの発見はドルトンによる結合比の発見同様、物質の原子論的性質に関する最初の手がかりとなった。
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