経済と行政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
「ユスティニアヌス1世」の記事における「経済と行政」の解説
ユスティニアヌス1世の前任者たちと同様に帝国の経済は主に農業に依存していた。加えて長距離貿易が賑わい、北はブリテン島のコーンウォールに達し、ここでは錫がローマの小麦と交換されていた。帝国内ではアレクサンドリアからの船団がコンスタンティノポリスへ小麦と穀物を供給し、ユスティニアヌスは交通をより効率的にするためにテネドス島に保管とコンスタンティノポリスへの輸送のための巨大な穀倉を建設した。また、ユスティニアヌスはペルシャとの戦争のために大きな打撃を受けた東方交易の新経路を探そうとした。絹は重要な嗜好品の一つで、これは帝国へ輸入され、加工されていた。絹産業を保護するために、ユスティニアヌスは541年に国営工場へ専売権を与えている。ペルシャの陸路を避けるためにユスティニアヌスはアビシニアとの友好関係を確立した。アビシニアはインドと帝国との絹の中継貿易を望んでいたが、インドでペルシャの商人との競争に勝つことができなかった。その後、550年代初めに二人の修道士が中央アジアから蚕の繭を盗み出してコンスタンティノープルへ持ち帰ることに成功し、絹は東ローマ帝国の国内産業となった。 治世の開始時にユスティニアヌスはアナスタシウス1世とユスティヌス1世から2880万ソリドゥス(金40万ポンド)の余剰金を相続していた。ユスティニアヌスの治世下では地方における汚職への対抗策が取られ、徴税はより効果的になった。大きな行政権が各県や各州の長官に与えられる一方で、行政官(ウィカリウス)や教区の権限は取り除かれ、幾つかは廃止もされた。行政機構の簡素化が全般的な傾向だった。ピーター・ブラウンによれば徴税の専門化はギリシャ諸都市の市会の自治を弱めることにより、地方生活の伝統的構造を破壊している。ユスティニアヌスの再征服以前、530年の帝国の歳入は500万ソリドゥスであったが、550年には600万ソリドゥスに増加していたと見積もられている。 ユスティニアヌスの治世期間、東方の都市と村は繁栄したが、アンティオキアは526年と528年に地震で破壊され、そして540年にはペルシャによって略奪され住民は退去させられている。ユスティニアヌスは以前よりやや小さい規模にだがアンティオキアを再建した。 これらすべての処置にもかかわらず、帝国は6世紀の間にいくつかの大きな躓きを経験している。第一は541年から543年に発生した疫病で、帝国の人口を激減させ、おそらく労働力不足と賃金の上昇を引き起こした。人的資源の不足は540年代前半以降の東ローマ帝国軍内の蛮族の大幅な増加をもたらした。長期化したイタリア戦役と対ペルシャ戦争は帝国の財源への大きな負担となり、ユスティニアヌスは国営の郵便業務を軍事的に重要な東方経路のみに制限して他を削減したことで批判されている。
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