経済と税金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 03:36 UTC 版)
ほとんどのアビタンが、市場に出すよりも、自分たちを満足させるために穀物を育て、食物と衣類を得た。ケベックの市場が小さかったため、いざという時の蓄えのほうに力を入れた。ケベックが建設されて間もないころでさえ、ヌーベルフランスにおける農民の数はきわめて多かった。1851年には、ケベックの住民のおよそ70パーセントが農民であったと言われている。アメリカ合衆国の東部では、この数字はかなり違ったものであった。全人口に占める農民の比率の統計では、1870年のマサチューセッツの農民は全体のわずか13パーセント、ニューヨークでは25パーセントであった。同じ時期、農業従事者は、ケベックの労働人口の過半数を占めていた。カナダとアメリカとの対照的なこの数字から、ニューヨークの農民の平均と比較して3分の1の国内市場という事実に、ケベックの農民が直面していたことがわかる 。しかし、18世紀に入って人口が増え、輸出も行われるようになり、アビタンの納税を考えて、余剰生産が行われ、ケベックの作物は他のフランス植民地にも輸出されるようになった。 領主から土地を貸し下げられるに当たって、ある責任、または義務が生じた。まず、アビタンは、その土地を耕し、作物を作って生活することが期待された。1年以内に土地の一部が耕されない場合は、領主は「ドロワ・ド・レユニオン」(droit de reunion)を使った。これは「再所有の権利」という意味である。2番目に、領主にアビタンが支払う税はいくつもあった。一つは「サン」、これは2ソル(sol、フランスの旧貨幣単位、20分の1リーヴル)から6ソルの間だった。これは金額にあまり価値がなく、多くの場合象徴的なものであった。土地の賃料は一般的に、1アルパンに対して20ソルだった。アビタンが土地を売った場合は、領主は「ロ・エ・ヴァント」(lot et vente、払下げ地と売上高の意味)も受け取った。これは売価の12分の1に相当する金額だった。アビタンのもうひとつの義務は、領主の製粉所で麦を挽き、麦全体の14分の1にあたる使用料を収めることだった。アビタンの一部は、自分が取った魚全体の13分の1を領主に献上した。またさらに一部のアビタンは、種まき、収穫、あるいは刈り入れの時期の賦役が課せられた、これはコルヴェ(corvee)と呼ばれた。
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