サーサーン朝の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 09:39 UTC 版)
「カーディシーヤの戦い」の記事における「サーサーン朝の反撃」の解説
ハーリドの転戦後、ユーフラテス、チグリスに挟まれたメソポタミアでは、サーサーン朝とムスリム軍が一進一退を繰り返した。サーサーン朝のヤズデギルド3世は国内の権力基盤を強固なものにすると、ムスリム勢力への大反攻を企て、635年に東ローマ皇帝ヘラクレイオスとの関係強化を模索した。ヘラクレイオスは娘をヤズデギルド3世に嫁がせると、レバントへの大攻勢の準備を進め、ヤズデギルド3世もイラク支配を確立すべく軍を糾合し、両皇帝は連携してウマルを撃滅しようと企てた。 ところが、ヘラクレイオスが636年5月に攻勢を開始した際、ヤズデギルド3世は足並みを揃えられなかった。両者の同盟をいち早く察知していたウマルは、まず東ローマ軍に備えてヤルムークの軍を増強。一方で、サード・ブン・アビー・ワッカース(英語版)に、ヤズデギルド3世との和平交渉に入らせた。ムスリム軍に増援が続々と到着するのを見た東ローマ軍は、敵が強大になる前に叩こうとし、皇帝の指示を無視する形で攻撃を開始した。東ローマ軍は636年8月、ヤルムークの戦いで全滅した。ヤズデギルド3世はあきらめず、首都郊外に大軍を集結し、指揮を歴戦の武将であるロスタムに委ねた。知らせを受けたウマルは、イラク駐在軍にイラクを放棄するように命じた。
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