サーサーン朝ペルシアの侵寇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 15:18 UTC 版)
「3世紀の危機」の記事における「サーサーン朝ペルシアの侵寇」の解説
さらにサーサーン朝ペルシアの存在も無視できなかった。北方におけるゲルマン民族と同様、東方のパルティアも国境をたびたび脅かす頭痛の種であったが、新たにサーサーン朝を興したアルダシール1世は224年にパルティアを滅ぼすと、かつてのアケメネス朝の復興を標榜して小アジアからのローマ人の退去を求めて抗争の端を開くこととなる。 アルダシールは241年に世を去るものの、息子のシャープール1世がその跡を継ぐとペルシアは再び攻勢に乗り出した。ローマ側も皇帝がしばしばメソポタミア地方に親征してこれを迎え撃つものの芳しい戦果は得られず、244年のミシケの戦いではゴルディアヌス帝が戦死し、既述の通り260年のエデッサの戦いでは皇帝自身が捕虜になるなど失態も呈した。253年にローマとペルシアの間の一種の緩衝地帯であったアルメニアをその配下に収めると、ペルシア軍はローマの東方国境を脅かし始める。 大勝の連続に勢いを得たシャープールは本格的にローマ領への進撃を図るものの、しかし261年にパルミラを中心とした東方属州一帯を治める総督セプティミウス・オダエナトゥスの軍勢に大敗する。この戦勝によりペルシアの侵寇は一端押し留められることになるものの、このことは後述するパルミラ地方の分離独立の契機となった。
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