サーサーン朝ペルシアとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 17:25 UTC 版)
「ヴァフタング1世」の記事における「サーサーン朝ペルシアとの戦争」の解説
当初イベリア王国はサーサーン朝に従属していたが、度重なる侵略に憤慨したヴァフタング1世はペルシア王女のバレンドゥフトと離婚した。その後王権強化を試みたヴァフタング1世は東ローマ帝国皇帝のゼノンの娘とされるへレーナと再婚し、見事コンスタンティノープルからイベリア王国教会長に任命され、ムツヘタで監督を担った。 親ローマ政策を進めていくヴァフタング1世であったが、482年ついにイランとの亀裂が深まった決定的な事件が起きた。ヴァフタング1世は側近の家臣であるヴァルスケン(英語版)とビダクシュ(英語版)を、ゾロアスター教に改宗し彼らのキリスト教徒の妻のシュシャニク(英語版)を殺害したとして極刑にしたのである。このヴァフタング1世の行いがサーサーン朝の逆鱗に触れてしまい彼はサーサーン朝と対立することとなった。そこでヴァフタング1世はアルメニアの王子とフン人に同盟を要請し、反ペルシャ反乱を指揮した。483年と484年にサーサーン朝がイベリア王国へ略奪をしに遠征に行くも、サーサーン朝のペーローズは484年に戦死し、コーカサスに平和が訪れた。イベリア王国の勝利へと終わるとヴァフタング1世は王を改めて宣言した。サーサーン朝に勝利したヴァフタング1世は、すでにイラン人の建てた集落に新たにティフリスという街を創設した。これが現在のトビリシであり、ティフリスはヴァフタング1世の遺言に従った息子のダチ(英語版)によって、後にムツヘタから遷都されイベリア王国の首都となる。 イランとローマの百年間の平和期間が終了すると、サーサーン朝のカワード1世はヴァフタング1世を召喚し対ローマ戦争で共闘するよう要求したが、ヴァフタング1世はこれを拒否したためイベリア王国はまたもやサーサーン朝の怒りを買った。そのためヴァフタング1世は60歳を過ぎても戦争や亡命に人生の晩期を過ごした。その間ローマに援助を求めてみたりもしたが無駄だった。正確なことは年代記でもはっきりとしていないが、518年までにはサーサーン朝の総督が現在のトビリシのある場所にティフリス (Tiflis)という村をカルトリの伝統にしたがって創設したと言われている。LVGによると、ヴァフタング1世はイランと戦っている途中で裏切り者の奴隷の手によって脇の下の鎧の脆い部分を矢で射られて戦死したと伝えられている。負傷したヴァフタング1世はウジャルマ要塞(英語版)へと運ばれたが後にそこで死亡し、ムツヘタのスヴェチツクホヴェリ大聖堂(英語版)に埋葬された。しかし、彼がいつ死亡したかは前述のとおり諸説ある。
※この「サーサーン朝ペルシアとの戦争」の解説は、「ヴァフタング1世」の解説の一部です。
「サーサーン朝ペルシアとの戦争」を含む「ヴァフタング1世」の記事については、「ヴァフタング1世」の概要を参照ください。
- サーサーン朝ペルシアとの戦争のページへのリンク