サーサーン朝の内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 09:39 UTC 版)
「カーディシーヤの戦い」の記事における「サーサーン朝の内紛」の解説
詳細は「サーサーン内乱 (628年‐632年)」を参照 ホスロー2世は628年に宮殿で息子のカワード2世に殺害された。カワード2世は18人の兄弟も殺したが、即位数カ月後に疫病で急死し、内乱が勃発した。カワード2世の7歳の息子のアルダシール3世が擁立されたが、1年半後に配下の将軍シャフルバラーズに殺害された。 629年、アルメニア王国との戦いでシャフルバラーズは敗死し、ホスロー2世の娘のボーラーン(英語版)が後を継いだ。ボーラーンは、司法制度改革やインフラの再整備、減税、貨幣の鋳造を行い、ビザンティン帝国と友好的関係を結んで国内に安定をもたらそうとした。また、ペルシア軍の最高司令官にロスタム・ファルロフザード(英語版)を任命した。しかし、内乱で失墜していた皇帝の権威を完全に復活させるまでには至らず、間もなく退位してアーザルミードゥフトが帝位を継承し、更に ホルミズド6世がその後を継いだ。5年にわたる内紛の末、ヤズデギルド3世(ホスロー2世の孫)が8歳で即位した。実権はロスタムら実力者が握ったが、重臣たちの間では権力闘争が続いた。
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