世界最初のキリスト教国化
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「アルメニアの歴史」の記事における「世界最初のキリスト教国化」の解説
当初のアルメニアはゾロアスター教信仰のもと、ローマ式の中央集権を廃したパルティア式地方分権をとった。書き言葉はアラム文字からパルティア文字へと変わり、この時期に古典アルメニア語もペルシア語の影響を強く受けた。しかし、サーサーン朝の伸長によって226年に本家のアルサケス朝パルティアが滅びると、分家のアルサケス朝アルメニアの立場も危ういものとなった。パルティアを救うために兵を挙げたアルメニア王は暗殺され、252年に王位はサーサーン朝の臣下アルタヴァスデス(フランス語版)に簒奪された。サーサーン朝の内紛にともない、ローマに庇護されたティリダテス3世(英語版)がアルサケス朝による王位を回復することができたのは、287年になってのことであった。 伝説によれば、国へ戻ったティリダテスは当初国内のキリスト教徒を激しく弾圧したという。しかし、そのうちティリダテスは正気を失って四つ足で野山を駆け回るようになった。このとき、王の狂気を癒したのが、牢につながれていた宣教者、啓蒙者グレゴリウス(英語版)(かつてアルメニア王を暗殺したパルティアのアナク(ドイツ語版)の子とされる)であった。これを機に、王家は皆グレゴリウスに洗礼を受け、キリスト教へと改宗したという。301年、ティリダテスは改宗の地ヴァガルシャパトに聖堂エチミアジンを築き、キリスト教をアルメニアの国教とした。ローマによるキリスト教の国教化に先立つこと79年前、世界最初のキリスト教国の誕生であった(ただし、実際に国教化が実施されたのは、ローマ皇帝ディオクレティアヌスが退きミラノ勅令が発されてからであったとみられる)。 その他にも、ティリダテスは豪勇と統率力によって、今日に至るアルメニア文化(ロシア語版)の基礎を築き、アルメニア中興の祖たる「光輝王」として讃えられている。しかし、同時にティリダテスは異教を激しく弾圧し、従来の信仰を維持する諸侯との間に軋轢を招いた。サーサーン朝からはゾロアスター教への再改宗の強い圧力も受け、ついにティリダテスは土地貴族によって暗殺された。
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