キリスト教の国教化
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「テオドシウス1世」の記事における「キリスト教の国教化」の解説
4世紀、帝国の使徒教会はイエス・キリストの三位一体性をめぐって分裂していた。325年に開かれたニケーア公会議では、三位一体性を認めるアタナシウス派が正統と認められ、三位一体性を認めないアリウス派を異端とした、ニカイア信条が採択された。 だが、異端とされてもアリウス派の布教の勢いは収まらず、東方域では三位一体派よりもアリウス派のほうが普及していた。また、帝国各地には三位一体派と一線を画す様々なキリスト教の宗派が生まれていた。また、皇帝側の動きも定まったものではなく、アリウス派の影響力が強かった主因として挙げられるのが、当地を統治した皇帝にアリウス派の信徒がいたからである。コンスタンティウス2世や、テオドシウス1世の前の東方皇帝ウァレンスはアリウス派の信徒であった。熱狂的なアリウス派の信徒であったウァレンスがハドリアノポリスの戦いで不名誉な死を遂げた時、三位一体派はこれを歓喜で迎えたほどであった。 テオドシウス1世は379年冬に大病を患っていたときに三位一体派のテッサロニキ主教(司教)アコリウスから洗礼を受けたため、ニカイア信条に忠実であった。380年11月24日、テオドシウス1世は三位一体派ではなかったコンスタンティノポリス大主教デモフィリス(英語版)を追放し、三位一体派のナジアンゾスのグレゴリオスを後任とした。 これに先立つ380年2月28日には、テオドシウス1世とグラティアヌス、ウァレンティアヌスの3人の東西皇帝は、「使徒ペトロがローマ人にもたらし、ローマ教皇ダマスス1世とアレクサンドリア総主教ペトロス2世(英語版)が支持する三位一体性を信仰すべきであり、三位一体性を信仰しない者は、異端と認定し罰する」という「テッサロニキ勅令(英語版)」を発した。当時のローマ教皇とアレクサンドリア総主教は三位一体派であったため、この勅令が三位一体派の保護と非三位一体(英語版)派の排斥が目的であることがよくわかる。事実、アリウス派だけではなく、マケドニア人の小さな教派も弾圧されていた。 この「テッサロニキ勅令」は「ミラノ勅令」以下コンスタンティヌス1世の下に定められたキリスト教会の準公的な位置づけを無視する部分もあった。その最たるものは、異教の寺院であっても、公共建築として活用できるのであるならば、保護する事を命じた部分であった。だが、後に「テオドシウス勅令」と呼ばれることになる一連の勅令では、次第に異教に対する風当たりを強くする内容が多々あった。 379年、テオドシウス1世はキリスト教以外の宗教の祭日がキリスト教における平日に行なわれていると罵倒し始めた。381年になると、テオドシウス1世は非キリスト教の神に捧げる犠牲を禁じ、「誰も、聖域に行くことはなく、寺院を歩いて通り抜け、人の労働で作成された像を見てはならない」と定めた。 当時流行していたミトラ教の集会場として使用されていたカタコンベを破壊、その上に教会を建てようとしていたアレクサンドリア司教テオフィロス(英語版)の要求に応じたように、テオドシウスは三位一体派の異教や異端に対する攻撃を支持した。これと同様な運命をたどったカタコンベの中には、現在では5世紀のカトリックの基礎を形作ったものも多数ある。 このような出来事は、三位一体派の司教とその信者の行為に多大な影響を与えた。 また、381年に出された勅令の最も重要なものに、女祭司制度の廃止がある。公式に廃止を命じたわけではないが、これ以降今まで国庫から賄ってきた女祭司の費用を賄わないというものであった。これとともに、ローマ建国以来フォロ・ロマーノにあり、女祭司が常に絶やさないできた「聖なる火」も消えてしまうことになった。 384年、元老院議員シュンマクス(英語版)は、グラティアヌスの統治下で撤去された元老院議事堂前にあった勝利の女神像を戻すように訴えたが、テオドシウス1世はこれを拒否。逆に388年にはテオドシウス1世は元老院に対し古代ローマの伝統宗教(英語版)の廃絶を求める決議を提起。元老院側はほぼ全会一致で賛成した。これにより、キリスト教(三位一体派)は事実上、帝国の国教となった。 392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、後に西ローマ帝国においても同様にした。393年、テオドシウス1世は既に衰退しつつあった古代オリンピックを廃止。同時に、オリンピックの開催年を1周期にしたオリンピアードも廃止した。 これらのテオドシウス勅令は、テオドシウス1世自身が考えたものではなく、メディオラーヌム主教(司教)で三位一体派であったアンブロジウスの影響が強く現れていた。テオドシウス1世自身敬虔なキリスト教徒であったかどうかは非常に疑わしく、彼が洗礼した理由も、今まで病気知らずであったのに大病を患ったために気弱になっていた折、藁にもすがる気持ちで助けを求めたのではないだろうかという推測もある。しかし、キリスト教の下では相手がたとえ皇帝であろうとも、主教(司教)の命令には信者は従わなくてはならないという規則がある。アンブロジウスはこれをテオドシウス1世を御するための手段とした。 390年、テッサロニキのキリスト教徒が暴徒化し、行政長官らを多数殺害する事件が発生した。これに対しテオドシウス1世は軍を派遣。住民を多数殺害させて暴徒を鎮圧した(テッサロニカの虐殺)。これに激怒したアンブロジウスは報復が過剰であったと抗議し、さらにテオドシウス1世を公式な謝罪があるまで破門に処すと訴えた。テオドシウス1世は破門の処分を受けても約8ヶ月間は抵抗したが、ついに屈し、司教の足元に許しを請うた。
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