キリスト教の国教化とは? わかりやすく解説

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キリスト教の国教化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:55 UTC 版)

テオドシウス1世」の記事における「キリスト教の国教化」の解説

4世紀帝国使徒教会イエス・キリスト三位一体性をめぐって分裂していた。325年開かれたニケーア公会議では、三位一体性を認めアタナシウス派正統認められ三位一体性を認めないアリウス派異端とした、ニカイア信条採択された。 だが、異端とされてもアリウス派布教勢いは収まらず、東方域では三位一体派よりもアリウス派のほうが普及していた。また、帝国各地には三位一体派と一線を画す様々なキリスト教の宗派生まれていた。また、皇帝側の動き定まったものではなくアリウス派影響力強かった主因として挙げられるのが、当地統治した皇帝アリウス派信徒がいたからである。コンスタンティウス2世や、テオドシウス1世の前の東方皇帝ウァレンスアリウス派信徒であった熱狂的なアリウス派信徒であったウァレンスハドリアノポリスの戦い不名誉な死を遂げた時、三位一体派はこれを歓喜迎えたほどであったテオドシウス1世379年冬に大病患っていたときに三位一体派のテッサロニキ主教司教)アコリウスから洗礼受けたため、ニカイア信条忠実であった380年11月24日テオドシウス1世三位一体派ではなかったコンスタンティノポリス大主教デモフィリス(英語版)を追放し三位一体派のナジアンゾスのグレゴリオス後任とした。 これに先立つ380年2月28日には、テオドシウス1世グラティアヌス、ウァレンティアヌスの3人の東西皇帝は、「使徒ペトロローマ人もたらしローマ教皇ダマスス1世アレクサンドリア総主教ペトロス2世英語版)が支持する三位一体性を信仰すべきであり、三位一体性を信仰しない者は、異端認定し罰する」という「テッサロニキ勅令英語版)」を発した当時ローマ教皇アレクサンドリア総主教三位一体であったため、この勅令三位一体派の保護と非三位一体英語版)派の排斥目的であることがよくわかる。事実アリウス派だけではなくマケドニア人小さな教派弾圧されていた。 この「テッサロニキ勅令」は「ミラノ勅令」以下コンスタンティヌス1世の下に定められキリスト教会の準公的な位置づけ無視する部分もあった。その最たるものは、異教寺院であっても公共建築として活用できるのであるならば、保護する事を命じた部分であった。だが、後に「テオドシウス勅令」と呼ばれることになる一連の勅令では、次第異教対す風当たり強くする内容多々あった。 379年テオドシウス1世キリスト教以外の宗教祭日キリスト教における平日行なわれていると罵倒し始めた381年になると、テオドシウス1世非キリスト教の神に捧げる犠牲禁じ、「誰も聖域に行くことはなく、寺院歩いて通り抜け、人の労働作成された像を見てならない」と定めた当時流行していたミトラ教集会場として使用されていたカタコンベ破壊その上に教会建てようとしていたアレクサンドリア司教テオフィロス英語版)の要求応じたように、テオドシウス三位一体派の異教異端対す攻撃支持した。これと同様な運命たどったカタコンベ中には、現在では5世紀カトリック基礎形作ったものも多数ある。 このような出来事は、三位一体派の司教とその信者行為多大な影響与えたまた、381年出され勅令の最も重要なものに、女祭司制度の廃止がある。公式に廃止命じたわけではないが、これ以降今まで国庫から賄ってきた女祭司費用を賄わないというものであった。これとともにローマ建国以来フォロ・ロマーノにあり、女祭司が常に絶やさないできた「聖なる火」も消えてしまうことになった384年元老院議員シュンマクス(英語版)は、グラティアヌス統治下で撤去され元老院議事堂前にあった勝利の女神像を戻すように訴えたが、テオドシウス1世はこれを拒否逆に388年にはテオドシウス1世元老院対し古代ローマ伝統宗教英語版)の廃絶求め決議提起元老院側はほぼ全会一致賛成した。これにより、キリスト教三位一体派)は事実上帝国国教となった392年キリスト教東ローマ帝国国教定め、後に西ローマ帝国においても同様にした。393年テオドシウス1世は既に衰退しつつあった古代オリンピック廃止同時にオリンピック開催年を1周期にしたオリンピアード廃止した。 これらのテオドシウス勅令は、テオドシウス1世自身考えたものではなく、メディオラーヌム主教司教)で三位一体であったアンブロジウス影響強く現れていた。テオドシウス1世自身敬虔なキリスト教徒であったかどうかは非常に疑わしく、彼が洗礼した理由も、今まで病気知らずであったのに大病患ったために気弱になっていた折、藁にもすがる気持ち助け求めたのではないだろうかという推測もある。しかし、キリスト教の下では相手がたとえ皇帝であろうとも、主教司教)の命令には信者は従わなくてはならないという規則がある。アンブロジウスはこれをテオドシウス1世御するための手段とした。 390年テッサロニキキリスト教徒暴徒化し、行政長官らを多数殺害する事件発生した。これに対しテオドシウス1世は軍を派遣住民多数殺害させて暴徒鎮圧したテッサロニカの虐殺)。これに激怒したアンブロジウス報復過剰であった抗議し、さらにテオドシウス1世を公式な謝罪があるまで破門処す訴えたテオドシウス1世破門処分受けても約8ヶ月間は抵抗したが、ついに屈し司教足元に許しを請うた。

※この「キリスト教の国教化」の解説は、「テオドシウス1世」の解説の一部です。
「キリスト教の国教化」を含む「テオドシウス1世」の記事については、「テオドシウス1世」の概要を参照ください。

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