キリスト教の布教、ラビン派の改革
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「エチオピアにおけるユダヤ人の歴史」の記事における「キリスト教の布教、ラビン派の改革」の解説
「第二次エチオピア戦争」も参照 ヨーロッパ諸国とベタ・イスラエルの間の交流は近代以前からもしばしばあったものの、その存在が広く知られるようになるのは、ユダヤ教徒へのキリスト教布教を目的とするプロテスタント系の宣教師協会、『ロンドン・ユダヤ人布教協会』の活動開始を待たなくてはならなかった。 ユダヤ教からの改宗者ヘンリー・アーロン・スターンが率いるこの団体は、1859年にエチオピアで活動を開始した。彼らの活動の結果、1922年までに2000人のベタ・イスラエルがエチオピア正教に改宗した。(エチオピア政府との協定により、プロテスタントの布教は行われなかった)キリスト教に改宗したベタ・イスラエルは、今日では「ファラーシュ・ムーラー」と呼ばれている。 ヨーロッパのユダヤ人たちの間では、こうしたエチオピアにおけるキリスト教の布教活動は挑発として受け取られた。ヨーロッパのラビはベタ・イスラエルをユダヤ人として承認し、最終的に1868年、国際イスラエル人協会はユダヤ系フランス人の東洋学者、ジョゼフ・アレヴィをエチオピアに調査のため派遣した。帰還後アレヴィはベタ・イスラエルについて非常に好意的な立場に立った報告を行い、世界のユダヤ人コミュニティに対しベタ・イスラエルに対する支援を呼び掛けた。彼はさらに、エチオピアにユダヤ教学校を建設すること、さらには数千人のベタ・イスラエルをオスマン帝国領シリアに入植させることなどを提案した。これはシオニストによるパレスチナ入植計画が立てられるよりも、さらに10年以上早いものである。 しかしユダヤ人社会はベタ・イスラエルに対する関心を急速に失っていった。その原因には、ベタ・イスラエルがユダヤ人であることに対する疑いと、国際イスラエル人協会がアレヴィの提案を採決しなかったことなどが挙げられる[要出典]。 1888年から1892年にかけ、エチオピア北部では深刻な飢饉が発生した。これは牛痘の流行によって多数の牛が死亡したためである。(1890年代アフリカにおける牛痘の流行も参照)コレラ(1889年~1892年)、チフス、天然痘(1889年~1890年)の流行により、状況はさらに悪化した。 この飢饉により、エチオピアでは総人口の3分の1、さらにベタ・イスラエルの半分から3分の2が死亡したとされる。 ジャック・ファイトロヴィッチ博士は失われた十支族がエチオピアに居住するという情報に関心を持った。彼はフランス高等研究実習院時代にはアレヴィの教え子であった。1904年、ファイトロヴィッチはエチオピア北部での再度の調査を呼び掛け、エドモン・ド・ロチルドから資金提供を受けた。彼はエチオピアのユダヤ人地域に渡航し、ユダヤ人たちとともに生活した。さらに彼はプロテスタント宣教師の活動を妨害することにも成功した。その後、彼は1905年から1935年にかけて、25人のユダヤ人の少年をヨーロッパに移住させた。 その後、彼はベタ・イスラエルに関する国際的な委員会を設置した。そして『ファラーシャの共同体への旅に関する覚書』(1905年)の中で、ベタ・イスラエルを紹介した。そして、現地での学校建設のため、必要な資金を確保した。 1908年、45か国の首席ラビにより、エチオピアのユダヤ人をユダヤ人として認める共同宣言がなされた。 こうして20世紀初頭には、ベタ・イスラエルの存在はヨーロッパにおける大部分のユダヤ人コミュニティにより承認された。 1921年、イギリス委任統治領パレスチナにおける最初の首席ラビ、アブラハム・イツハク・クックがベタ・イスラエルをユダヤ人として承認した。
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