キリスト教の布教と征服との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 03:19 UTC 版)
「サン=フェリペ号事件」の記事における「キリスト教の布教と征服との関連」の解説
ポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した小規模の貿易拠点、居留地を手に入れる一方で、文明がすでに発達していたインド、中国、イスラム王朝が支配する東南アジア等のアジア諸国の植民地化には成功しなかった。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争を伴う植民地化ではなかった。 ゴア攻略はヨーロッパでのオスマン帝国、イスラム王朝との戦いの継続でもあるため、インド洋制覇と香辛料貿易の独占を狙うオスマン帝国に対抗する軍事拠点の獲得と見ることができる。マラッカ攻略についてはスルタン・マームドによって虜囚とされたポルトガルの通商外交使節団の奪還とイスラム王朝への報復を目的とした軍事行動であり宣教師とは無関係である。 フィリピンでは1405年にスールー諸島、1520年にミンダナオ島でイスラム王朝が建国されており、ルソン島の都市国家の首長の多くがイスラム教に改宗していた。オスマン帝国の支援を受けたブルネイ帝国にカスティーリャ戦争(1578年)でスペインが勝利したことで、イスラム王朝に対するフィリピンでの軍事的優位が確立された。1579年にはドミンゴ・デ・サラザールが初のマニラ司教に叙任された。フィリピンでの覇権を手にした後、キリスト教の改宗が本格的に進み各部族の宗教とカトリックが融合した民俗カトリックの信者が増え続けた。アジアではイエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するかのように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスが植民地を増やしていった。 フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ制圧の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない。宣教師たちは、キリスト教を広めることを第一の目的としていただけでなく、先住民の言語を学び、子供たちに読み書きを教え、大人たちには大工や陶芸などの職業を教えた。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた。フラマン人で神聖ローマ皇帝の親戚であるフランシスコ会修道士ペドロ・デ・ガンテはメキシコでの滞在を特別に許されていたが、デ・ガンテは伝統的に(特に敵対する部族の)人身御供を行っていた先住民の儀式的な習慣を目の当たりにし、宣教師として信仰を変える必要性を感じていた。ガンテは先住民の生活様式に合わせることが最善の方法であると考えた。先住民の言語を学び、先住民の会話やゲームに参加した。学校を設立して、そこで1532年までに5,000人の子供を教育した。 フランシスコ会修道士たちは布教を「瞑想と観想」によってのみ可能であると考えていたため、望むほど早く多くの人々を改宗させることができなかった。また植民地政府とフランシスコ会の修道士の間に緊張が生じ、最終的には何人かの修道士が現在のメキシコ西部に逃亡し、フランシスコ会の小教区が解散することになった。また、フランシスコ会の小教区の解散には、清貧の誓いや植民地政府からの非難などの問題もあった。フランシスコ会の宣教師は先住民の権利を守ることで、スペイン政府としばしば対立していた。 イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである。イエズス会は、特に南米南東部において、スペインで広く行われていた「レダクシオネス」と呼ばれる入植地を作り、広範囲に広がる先住民を集中させて、先住民の統治、キリスト教化、保護を強化していた。イエズス会の「レダクシオネス」では、各家庭に家と畑があり、個人には労働の対価として衣服と食事が与えられていた。さらに、学校、教会、病院があり、各「レダクシオネス」には2人のイエズス会宣教師が監督する先住民の指導者と統治評議会が設けられた。フランシスコ会と同様に、イエズス会の宣教師たちも現地の言語を学び、大人たちにヨーロッパの建築、製造、農業の方法を教えた。スペイン人入植者は「レダクシオネス」で住むことも働くことも禁止されていた。これにより、イエズス会の宣教師とスペイン人との関係はぎくしゃくしたものになった。それというのも、周辺のスペイン人入植地では、人々は食料、避難所、衣類を保証されていなかったからだ。1767年にイエズス会はアメリカでのスペイン領から追放措置を受け活動を停止した。 ドミニコ会についてはミゲル・デ・ベナビデス・イ・アニョーザ等の修道士が1587年に初めてフィリピンに上陸している。ベナビデスはマニラで中国人のための病院を作り、スペイン人の圧政からフィリピン先住民を保護するために、マニラ司教ドミンゴ・デ・サラザールに同行してスペインに赴いた。1602年にマニラ大司教となり、1603年にはフランシスコ会にフィリピンに居住していた日本人の面倒を任せている。ベナビデスはアジア最古の大学である聖トマス大学の創設者として知られ、死後の1611年に開校した。 フランシスコ会はスペイン政府との一定の距離感が保たれており、ときには互いに非難の応酬をすることもあった。イエズス会も国家から独立した組織として布教する現地住民の意向を優先しており、ポルトガルとスペインの両国とも緊張関係にあった。宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても諸説ある。
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